国際女性デー 誰も興味のないわたしの話
3月8日、国際女性デー
去年は、神戸で大人女子が集って頭に花飾りをつけたり、ポールダンサー達が舞い踊ったり、TEDxで話をした経験のある人々に混ざって、わたしも子供の外見ケアやメンタルケアに関する『チャーミングケア』のちょっとした話をさせてもらった。
今年は国際女性デーに際して、「個人的なことは政治的なこと」という言葉を目にした。
Wikipediaからの情報程度しかわたしには見識はないけれど、「ほほぅ、なるほど。誰も興味のないわたしの話を今日はしてみても良いかもな」
と勝手に変換して、自分の話を書いてみようと思う。
ーはじまりはバブル崩壊ー
わたしの育った家庭はバブルの崩壊とともに30年ほど前に崩壊した。
崩壊というのか?解散というのか?とにかく、バラバラになった。再集結の予定はない。
崩壊の引き金を引いたスタメンの父が、5年ほど前に肝臓がんで亡くなったので再集結しようがないとも言える。
我が家はバブル景気の恩恵を受け、中学から私立中学に通っていた。一人っ子だったわたしは、お金で買えないものってないんじゃないか?といういわゆる裕福な暮らしをしていた。
それが中学2年生の頃には、父が家に帰ってこなくなった。
おやおや??と思い始めたのはこの頃で、周りとの違いをヒシヒシと感じるようになった。
筆箱がヴィトンだったり、持ち物がいちいちブランドものの中高生が通っていた学校だ。
「これ(父親が家に帰ってこなくなったこと)は・・・あかんやつや」
そう思って神経性胃炎になった。
一人っ子の娘が胃炎になったからといって状況は良くはならず、いよいよ中学3年生で父からの生活費の振り込みはなくなった。
残された母は、ほぼまともに働いた経験のない女性で、今考えるととにかく世間知らずだった。結果として彼女はわたしの養育を放棄した。
「高校に進学しなくていい」そう言われたのは、生活費が滞って間もない頃だ。
今でこそ、D×Pさんや子どもセンターぬっくさんのような未成年の子どもを守るプログラムや活動があるけれど、30年前にはそんなものはなかった。
あったのかもしれないけど、今のようにインターネットが普及しているわけでもなく、その情報は10代のわたしには届かなかった。
自分の親がどんな仕事をして生活費を稼いできているのか、今の子どもは答えられるのだろうか?当時のわたしは答えられなかった。それがある意味不安でもあった。そういう不安が、わたしを貯蓄の鬼に育てていた。
中学3年生のわたしは自分の貯金を400万円ほど所持しており、そのお金でそのままエスカレーター式で上がれる高校に通うこともできたし、大学も働きながら通うことができた。ただし住んでいた家は、競売にかかり大学2回生の時に実家はなくなった。
不幸レベルというと、10がマックスならば7くらいだろうか?大学生の頃から夜の世界でもアルバイトをしていたので、人の苦労話をよく聞いた。「キッツイなぁ〜。」と思う話がちょいちょいあり、わたしより大変な人は世の中に一定数いるんだなということはそこで把握した。
ー学ぶ機会を得ることが打開策ー
学歴が全てではない。ましてや国立でもなくそんなに有名でもない大学を卒業したところで、その後の人生にそんなに有利に働くことはほぼない。
だけど、わたしはどんなに生活が厳しかろうと学校を辞めようとは思わなかった。
自分の状況を打開するのは、「学ぶ機会を得ること」しかないと感じていたからだ。
かくいう、わたしの母は中卒だ。別に中卒をバカにするつもりはないし、それで人生うまくやっている人がいることも知っている。
何度もいうが、学歴が全てではない。
だけど、学びの積み重ねがない事による母の異常とも言える世間知らずな部分がすごく嫌だったし、それがわたしの人生に大きく影響していることを常に恨んでいた。
母は、わたしが16歳になった時に「16になったら女の子は結婚できるから、お金を持ってる人と結婚すればこの生活から抜け出せる」と言って、母の年齢とそう変わらない子持ちのおっさんをわたしに紹介しようとしてきたことがある。
コイツはいよいよ終わってるなと、「あ、結構なんで、ご自分でどうぞ」と丁重にお断りしたエピソードをここで紹介しておく。
昼も夜も働いた大学時代。始発を待つ間、夜明けの駅で「早くこの状況から抜け出したい。どうやったら普通に戻れるんだろう」といつも考えた。
疲労から、半年に1度くらい原因不明でぶっ倒れた。医者に行くと「疲労ですね」と言われ、もれなく病名はなかった。
そんなわたしでも、どうにかこうにか大学を卒業して社会人となれた。
ーもう少し社会が優しければ・・・ー
最初に衝撃だったのは、社会人になった方が、大学時代より給料が少なかったことだ。学費の負担がなくなったので、生活としては成り立っていたが、なんとも言えない矛盾を感じた。あれだけ苦労して大学を出て、ようやく平常を手に入れたけど、大学時代より稼ぎが少ないってどういうこと?
しかも、思っていたような生き生きとした毎日でもない。なんだか損してる気がした。
そこから、今でいうところの「自分探しの期間」を過ごす。言っておくが、自分探しをするにはお金がかかる。ついでにいうならばグレるにもお金がかかる。貧乏は、生きる全ての機能を不全にするのだ。
いうならば、「自分探しができるステージに昇格した」とでもいうのか。
その表現が一番しっくりくる気がする。
20代のわたしはそのステージで、いろいろな経験をした。生意気だったのでパワハラにもあった。パワハラをしてきたおっさんを社会から抹殺もした。
「個人的なことは政治的なこと」まさにそれだなぁとその時々の自分を振り返ってそう感じる。もうちょっと世の中が女性や子どもが生きていくことに対して優しければ、きっとわたしはこんなに敢えて強くなる必要はなかったんじゃないかと思う。
ーわたしだからできることー
今わたしは、「チャーミングケア」という、病気や障害などによってスペシャルケアの必要な子どもたちの外見ケアやメンタルケア、そして家族のためのケアに着目して、その必要性を訴えている。
大概いままで世の中に訴えたい事はあったのだけれど、これに関しては今までにない必死ぶりだ。
どうしてかというと、自分の子ども時代のことも多少なりと起因している。
わたしが子どもだった時、わたしの声に耳を傾けてくれる大人はいなかった。親の都合で理不尽な環境に身を置かざるを得なかったけれど、それに対するSOSを声にすることすらできなかった。自分の家に起きていることに対して、同世代の子に話ができるようになったのは、大学2回生で一人で生活をするようになってからだ。抱えている間が、一番しんどかったかもしれない。
自分の子どもが小児がんの一種である小児白血病になった時、小学2年生だった彼に病名告知をせず過ごした3ヶ月。彼はめちゃくちゃ荒れた。息子とサシで話をしてみて感じた感覚は、過去の自分とも対話していたような気がする。
「ちゃんと見て欲しい」「ちゃんと聞いて欲しい」「ちゃんと向き合って欲しい」自分の息子の声と一緒に過去の自分の声が聞こえてきたような気がした。
自分もされてすごく嫌だった「子どもだからといって、みくびる」ということをなんでだか知らないけど、大人になると自分もしてしまっていることに気づいた。
ー国際女性デーに思うことー
生まれて41年とちょっと。女性であることを憂うのは生理痛がひどい日と、子宮頸がん検査のコルポ検診を麻酔なしでする時以外、さほどない。
おそらくわたしはわたしだから、ここには書ききれていない様々な理不尽さの波を乗り越えてきているし、何よりも子どもの声に気づいたのではないかなと感じている。
ただ、我慢できるからこれくらい大丈夫だろうと他者が決めつけていいもんじゃない事は、声を大にして言いたい。
我慢は我慢でしかなく、無理なことや理不尽なことをいたしかたなく乗り越えた結果だ。
いらん我慢などしたくないし、する気もない。
女性だから、お母さんだから、家族だから。
「だから」なんでしょうか?という話にちょいちょいぶち当たる。
わたしはわたしなので、なにかの属性ゆえに忖度する気はこれからも一切ない。
「個人的なことは政治的なこと」
なので今日は、全く知名度もなければ、誰も興味のないわたしの個人的なことを書いてみた。
大きな事はできないけれど、少し立ち止まって考えてもらうキッカケになれば良いかなと思いつつ、途中ダチョウ倶楽部さんのフィギアの写真を使用させていただいたことを最後に注釈としてつけておく。