ブライヌイ「伊豆韮山~北条氏発祥の地を巡る旅」
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の前半の舞台となるであろう、静岡県伊豆半島の韮山(にらやま)に、北条氏発祥の地に残る史跡を見て回ってきた。
伊豆箱根鉄道の韮山駅の西側に守山と呼ばれる山があり、この周囲に北条氏にまつわる史跡が点在している。
守山を南側から北へ半周する形で進んだ。
巡った順に書くため、歴史的エピソードは前後します。
(曇天もあって写真は地味です‥)
撮影時期:2021年11月上旬
所要時間:写真を撮りつつ徒歩で4時間程度
眞珠院。曹洞宗の寺。
守山の南側に位置する。
八重姫が祀られている。
平氏と源氏が戦った平治の乱で破れた源義朝の子、源頼朝が伊豆に流刑されたのが1160年。
あろうことか頼朝の監視役であった平氏方の地元豪族・伊東祐親(いとうすけちか)が京に上っている間に祐親の三女・八重姫と通じる。
男子・千鶴丸を授かるが、父祐親は激怒。千鶴丸を重りを付けて水に沈めて殺害、八重姫を幽閉する。
京に呼ばれるくらいだから伊東祐親は地元でかなり力をもっていて、家を守りたい意識もさぞ強かったんだろう。
八重姫は幽閉先から脱出し頼朝の元へ走るが、スケベな頼朝は既に北条政子と結婚しており、悲観した八重姫はこの寺の脇の真珠ヶ淵に入水して命を落としたという悲恋のお話。
境内には八重姫の供養堂があり、ハシゴがあれば助かったものを‥と地元の人が今でも小さな梯を供える風習があるそうだ。
かなりこのエピソードには諸説あり、八重姫は死んでおらず、父祐親が同国の豪族・江間小四郎(えまのこしろう・後の北条義時)に嫁がせて監視下に置いたという説もある。
この場合は後まで生きていたことになるか。
はたまた嫁がせられたのが嫌で脱出した後‥同上。
さらに江間小四郎は北条義時ではないとする説もある。年代的に不整合があるらしい。
決定的な歴史証拠が出るまでは、筆者は江間小四郎=北条義時と思って伝承およびドラマを楽しみたい。
眞珠院から少し北に歩くとすぐ、信光寺がある。
源頼朝と行動を共にした甲斐武田氏の開祖・信義公の5男、武田信光が開基。
この辺りに信光が住んでいたらしく、その邸宅跡であろうとも。
住宅地の中にあって目立たずそっと在る寺だった。
守山沿いに更に北へ移動。
守山の東の中央に願成就院がある。
北条義時の父・北条時政が眠る北条家の菩提寺。
かつての伽藍はかなり広範囲に広がっていたようで、浄土様式の壮大な寺院であった。
上に書いた信光寺も伽藍の一部だったとか。
本堂には現存する数少ない運慶の真作仏5体が収められている。(国宝)
偶然なのか毎日行われているのか、ご住職が仏様の説明をされていたところに途中参加。
そして奥の展示室には、胎内から発見された運慶の木簡が展示されていた。
北条時政、北条政子の像も並んで展示されており、おお、教科書で見たことがある像だ、とテンションが上った。
願成就院から歩いてすぐ北側の個人宅前にあった、北条政子の産湯の井戸。
これを避けて家を建てたことが推察される敷地割。
誰でも見学できるようにされていて、地元の北条愛を感じる。
ここもきっとかつての願成就院の敷地内だったのだろう。
この井戸の通りを挟んだ北側に公園があり、ここにも史跡がある。
伝堀越御所。
時代が飛び、後の室町時代の史跡。
足利氏がいたが、明応2年(1493)に伊勢宗瑞(北条早雲)に攻め滅ぼされたとか。
伝とあるのは、発掘調査では建物跡は見つからず、池の跡のみ発見されたようだ。
早雲は韮山城を本拠としていたが、早雲の嫡男・2代目氏綱の代になって小田原に本拠を移し、北条を名乗る。
伊勢宗瑞(早雲)は備中荏原荘(岡山県井原市)の出自であり、鎌倉北条氏とは血縁はない。
領国支配を正当化するために北條を名乗るプランは早雲の代からあり、2代目になって朝廷からのお許しを受けて正式に改姓したらしい。
氏綱は「勝って兜の緒を締めよ」の遺言で知られる。
守山の北西側、願成就院の裏側にあたる場所に円成寺(えんじょうじ)跡がある。
時代は戻り、鎌倉北条氏の史跡である。
北条一族の居館跡でもある。
鎌倉幕府滅亡後の元弘2年(1333)、北条一族の生き残り(主に女子供)は身内の円成尼(えんじょうに)が中心となって再びこの地に戻り、かつて住んでいた邸宅跡に円成寺を建立して北条祖先の冥福を祈った。
江戸時代頃まで尼寺が残っていたらしい。
惜しいな。もう少し残っていてくれたら、僕らも見られたのか。
透明なパネルで建物の雰囲気だけでも楽しめる展示はナイスアイデア。
アナログなVRである。
守山の西側には狩野川(かのがわ)が流れている。
これは円成寺跡のあたりから西側にカメラを向けて川を撮ってみたところ。
この川がある事で交通・物流の便もよく、伊豆半島の中では肥沃な穀倉地帯であった事から、この地が伊豆北部の押さえとして重要視されたようだ。
狩野川は伊豆半島の中央に位置する天城峠から半島の付け根、沼津に向かって流れている。
写真左が半島の先、右が半島の付け根沼津方面であり、川は左から右に向かって流れる。
分かりやすく言うと地図の下(太平洋側)から上(富士山)に向かって流れている。
どうにも流れが逆方向に感じられて不思議な川だ。
狩野川沿いに守山を離れて北へ徒歩数分。成福寺。
ここも北条氏の邸宅跡の一部とのことで、鎌倉から戻ってきた後はここに居を構えていたのであろうか。
今も北条氏の末裔が法灯を護っているとのこと。
狩野川を渡って対岸に、江間氏邸宅跡があるとの事で、歩を進める。
現在は江間公園となっているここが、北条義時(江間小四郎)屋敷跡だ。
ついに2022年大河ドラマの主人公に辿り着いた。
地元では江間小四郎=北条義時説を支持している事が石碑からも確認できる。
辺りは閑静な住宅街で、江間氏もやはり山の近くに居を構えていた事が分かる。
ここまできたらもう一歩。
韮山駅を通過して駅の東側にある、蛭ヶ小島(ひるがこじま)に向かう。
源頼朝が最初に配流された地。
韮山の麓に位置する。
ここから源頼朝の復活劇(愛憎劇?)が始まった。
蛭ヶ小島は田んぼの中にあり、小さな公園として整備されていた。
字面からかつて島だったのかと想像してみたが、この田んぼの風景を見るとどうも違うようだ。
旅をしてみると、北条氏やこの辺りの一族は山の麓に住み着く慣習がある事に気が付く。
山に登って周囲を監視しやすいとか、山への信仰とか、いくつか複合的な理由があろうか。
北条氏発祥の頃はまだ城郭を築くという発想がないが、後の時代になると人は山に城や館を構えたと思うと、その前兆があるともいえる。
歩いてみると、現代人の我々でも容易に移動できる範囲に北条氏も源頼朝も江間氏もいたことがよく分かった。
徒歩が基本的な移動手段の当時なら、本当にお隣さん、ご近所といったところだろう。
源頼朝の死については謎も多い。
鎌倉幕府とは、ご近所付き合いの中で人の情が絡み合った内側から力強く生まれてきたのだろう。
歩いてみてその距離感を知り、その事を体感できた。
おまけ。
筆者の住む名古屋には、源頼朝公生誕の地の碑がある。
熱田神宮のすぐ近くであり、熱田さんをお参りした際にぜひ探して頂きたいスポットの一つ。
人気がないのか知られていないのか、いつ通りかかっても写真を撮っている人が誰もいないのをずっと勿体なく思っている。
気分的にも地元に帰ったところでこの旅はここでフィニッシュにしよう。
【ブライヌイ】
歴史散策が好きで、妻と史跡などを探して町をブラブラしています。
事前に調べ上げて出発するのではなく、大雑把な前情報だけで見切り発車。
駅前の歴史散策マップは必ずチェック。
場所が分からず右往左往する事も。
そんな時間を楽しんでいます。
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