ブライヌイ「出雲大社」
来訪時期:2022年11月頃
所要時間:5~6時間程
日本人としていつか行ってみたいと思っていた出雲大社へ出掛けた。
行くにあたって、古事記の内容をざっくり調べた。
(神社として古事記に書かれた唯一の存在とか?)
縁結びにはまったく興味がない。
ただひたすらに日本の成り立ちを体感し、そこにおられたであろう出雲豪族に思いを馳せたる旅がしたかった。
史実や歴史的成り立ちに関しては専門家のような知識はないので間違いなどはご容赦ください。
気が付き次第そっと訂正いたします。
岡山駅から特急やくもに乗り込む。
なにやら撮り鉄さんが集まっている。
後で知ったが、我々が乗り込む列車が旧型車両らしく、珍しかったらしい。
調べてみると、定期運行している特急車両として本州で最も古い旧国鉄時代の381系との事。
鉄道には詳しくないので知らずに普通のテンションで乗り込んでしまった。
子供の頃に乗った事がある昭和の国鉄車両を思い出す雰囲気の車両であった。
やくもが中国山地を超え、川沿いの谷間を太平洋側から日本海側へ抜けていく。
車窓から川の流れを見ていると、分水嶺を経て流れが逆になるのが分かり興奮する。
道中は端折り、出雲大社へ到着。
出雲とはどういう地だったか。
日本海に面し、海流の関係で大陸および半島との交流が盛んであった。
九州北部と並ぶ日本の「玄関口」であったろう。
ゆえに文明というものが形成される以前から人が住み着き、その後文化や物資、技術が入ってきた。
日本でおそらく最古級の豊かなムラが形成され、人の営みが根付いた。
そんな土地である。
そこに新興勢力(後のヤマト族)がやってきて国譲りが行われ、大きな戦乱を回避するために自分の命を差し出したのが出雲王朝の長・オオクニヌシだ。
あるいは差し出すつもりはなかったのに殺された。
ヤマトとの折衝において、このオオクニヌシを祀ることを約束して建てられたと伝わるのが出雲大社である。
出雲族は豊富な武器を持っていたようで、敵に回したくない巨大豪族だったろう。
逆に見れば、仲間に引き入れれば一気に勢力を拡大できるスーパー集団。
古事記によれば、ヤマト族は出雲を手に入れるため、アメノホヒが出雲へ出向いて3年、アメノワカヒコが出向いて8年。
国譲りの交渉に二人も派遣したが、二人とも出雲を気に入ってしまい出雲へ帰化、ついに帰ってこなかったという。
きっと出雲の豪族たちはさぞ人間的魅力に溢れ、情が移ってしまうような、そんな一族だったんじゃないだろうか。
魅力溢れるタフネゴシエーター。
海の幸も美味かったのかも。
その後物部氏が派遣されたか、オオクニヌシは戦乱を回避するために自分の命を差し出して国を譲った。(=護った。)
今でも天皇家が出雲参りを続けておられるのは、この国譲りのヒーローに敬意を払っておられるからだろう。
あるいはお参りすることが国譲りの約束の中に含められたのかも。
そして天皇家は約二千年も続く約束を今も大切にしておられる。
この国の成り立ちを大事にしておられる。
これこそが世界最古の国家の凄みであると筆者は思う。
平成に入ってからの大発見で有名になったのが、この宇豆柱(うづばしら)だ。
本殿の前に赤い丸が描かれており、柱が立っていた場所を示している。
もともと出雲大社は古代を代表する高層建築との記録があった。高さ48mとも。
設計図面も残っているが、後年の資料には乏しく、その実在性は疑わしく見られていたようだ。
それが平成に入り、宇豆柱が発掘され、古代の設計図面とピタリ一致したため、高さが推定されるに至った。
このような高層建築だっただろうという再現模型。
確かに大きい。
現在の15階建てのビルに相当するとのこと。
こんな巨大な柱を、重機もない時代にどうやって建てたのか。
そしていつ頃まで建っていたのか。
倒壊したとすれば、その痕跡は残っていないのか。
その後ネットで調べてみると、宇豆柱の年代測定の結果では1248年頃(鎌倉時代)とのこと。
なるほど。ひょっとするとオオクニヌシが祀られた一番最初の時点ではまだこの高さではなかったのかもしれない。
しかし970年の「口遊」(くちずさみ)という書では、この国で一番の高さを誇ったと記述がされているとのこと。
(1出雲大社、2東大寺、3平安京大極殿)
もし970年当時に出雲大社がこの高さで建っていたとすれば、その後300年近くは建ち続けていたことになる。
この高さを維持するために定期的な遷宮が始まったのか?
そもそも遷宮はいつ始まったのだろうか。
やはり倒壊が原因だったのだろうか。
興味は尽きない。
面白いのは、中国から伝わる古式寺院の様式ではなく、日本オリジナルの建築様式である事だ。
それが日本一高くそびえていたのである。
実物を見てみたいという思いに駆られる。
出雲大社を離れ、江戸時代までの旧参道が今も通りとして残っていることを知って歩いてみた。
ブラタモリで有名になった四本の街道が交わっている角。
東側から西を撮っていて、写真奥に行くと稲佐の浜に続く。
神在月の時にはこの道を神様が通られる。
時間切れでこの日は浜の見学を諦めた。いつか再訪したい。
四本のうち一本は出雲街道であろうが、あとは何という名の街道であろうか。
石見街道か?
四つ角から一歩入った所に、江戸時代から続く出雲最古のそば屋「荒木屋」がある。
もちろん建物などは当時のものではないが、ずっとその場所にあったようだ。
この街道がさぞ賑わった時代もあったのだろう。
歴史を感じながら出雲そばを美味しく頂いた。
社家が住んでいた屋敷の通りが社家通りと呼ばれ、昔の風情を残しているとの事で、今度はそちらに歩みを進める。
出雲の社家は、出雲大社に祀られたオオクニヌシの祭司を務めたアメノホヒの末裔である千家家と北島家とのこと。
もともと一つの家であったが、分裂し、両家が交替で祭司を務めるようになる。(1340年頃)
明治時代に入り、出雲大社教の祭司は千家家が専任された。
北島家は出雲教として独立した。
北島家の邸宅跡が北島國造館として公開されているのでそちらに入ってみる。
この大門は江戸時代のもので、出雲神社の神域の中でも現存する最古級の建物とのこと。
中には庭園があり、出雲大社造営にあたり、第66代出雲国造・北島常考(きたじまつねのり)公によって作られた約350年前の地泉回遊式庭園。
当時の景観をほぼ留めている、とのこと。
66代って凄い数字だ。一代25年計算で1600年超。それが350年前のお人。
うん、やっぱり凄い。
この社家通りを抜けると、最近できた出雲歴史博物館にたどり着く。
荒神谷遺跡から出土した銅剣358本がすべて展示されている。
その上にある黄金色の剣は一本一本を再現したレプリカ。当時の輝きを再現しているとのこと。
加茂岩倉遺跡から出土した銅鐸も展示。
先に写真を挙げた、宇豆柱や本殿の復元模型などもこの歴史博物館に収められているものだ。
(フラッシュを焚かなければ撮影OKとの事だったので撮りまくった)
出雲王朝の話だけではなく、人類が海を渡ってここに住み着いた時代から順に説明がされている。
古代豪族の存在を体験できる博物館。
とても展示資料が多く、時間をゆっくり掛けるつもりで訪れると良い。
帰路の途中で気になったのは旧大社駅。
明治45年開業の駅舎で、現在利用されている山陰本線出雲市駅が開業する前はこちらが出雲参りの玄関口だったようだ。
全国に三件しかない駅舎の重要文化財の一つ。
現在改修中で入れなかったので写真も撮れず。
再訪する機会があれば必ず立ち寄りたい。
夜、地元のBARに入ってマスターと奥様から地元ならでは話をゆっくり伺うことができた。
なんでも10数年ほど前に縁結びやSNS映えスイーツなどで地域おこしをするまでは、観光は一時衰退していた時期もあったとのこと。
近年急激に観光客が増えたようだが、それを面倒なことのように話す素振りはまったくなかった。
他のお店などでも同様の印象を受けたが、常にオープンでウェルカム。
そして地元に根付く神話などをとても身近に自然なこととして大事にしておられる。
会う人会う人が大変魅力的だった。
アメノホヒとアメノワカヒコが帰ってこないのはこういう人の温かさを感じ取ったからではないのか、などと考えながら地酒や地ビールで心地よく酔いしれた。
まだまだ調べて訪ねたい場所が残っている。
もっと神様の気配を感じてみたい。
出雲の人々の温かさにもまた触れたい。
ぜひまた再訪したい土地である。
土地に力がある場所はなんとなく空気が明るいと感じた。
忘備録としての余談。
醤油が甘くて美味しかった。聞けば出雲は醤油発祥の地であるという。
日本酒も食事も、全てが上品な甘口。
筆者は名古屋の出であるが、名古屋人の好みと大変舌が近いと感じた。
【ブライヌイ】
歴史散策が好きで、妻と史跡などを探して町をブラブラしています。
事前に調べ上げて出発するのではなく、大雑把な前情報だけで見切り発車。
駅前の歴史散策マップは必ずチェック。
場所が分からず右往左往する事も。
そんな時間を楽しんでいます。
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