【ゲーム感想】サイレントヒル2(2024) / 基本3エンドの考察的な話と長い余談
多分2024年最後の投稿になります。なんでこれやねん。
最近はレトロゲームの力作リメイクがいくつも発売されていますね。タイトルしか知らないとか動画でしか見たことない、という作品にリメイクで触れる人も多いのではないでしょうか。
私もドラクエ3リメイク版をやりまして、セクシーギャル4人で魔王をシメました。楽しかったです。
さて、というわけで今回は「サイレントヒル2」リメイク版です。
ドラクエの話?しません
モダンホラーの歴史的傑作「サイレントヒル2」が遂にリメイク、しかもかなりの力作として蘇ったわけです。
私が原作をプレイしたのはPS3に移植された時ですが、その企みと深みに満ちたストーリーは印象に残っています。
ということで早速レビューを……ってもう発売から何ヶ月経ってるんだよ!!
そんな醜態は記憶から消していただきまして本題です。
はじめに
2001年にPS2で発売された「サイレントヒル2」(以下「原作」)は、ホラーゲームという枠を大きく超えた、モダンホラーの最高傑作の一つです。
これが傑作となれたのは、アメリカと日本のモダンホラーの要素を高い次元で両立し、さらにゲームとしてプレイするという行為をそれと緊密に結びつけたことにより、ホラーとして表現しうる最高レベルのストーリーを描き出したからである……と私は考えています。
原作・リメイク含め、本作については語れそうなことが多すぎまして、細かい話をしだすとキリがありません。
なので今回は、ストーリーの中核となる部分に話を絞ろうと思います。
……と言いながら、ゲーム外の話から方向へ話は始まるのです。
サイコロジカルホラーって何?
本作の公式サイトにある作品情報を見ると、こんなことが書いてあります。
この文字だけ見ると、ノーマン・ベイツやレクター博士みたいなやばい奴が人をブチ殺してウギャー、という話が思い浮かびそうですね。
一方で本作はおかしな街でバケモノをしばきながら進むゲーム、つまりスーパーナチュラルなホラー。
じゃあサイコロジカルって何よ?何なのよ?
よくわからんのでとりあえずWikipediaを見てみましょう。
なるほど、サイコロジカルスリラー(サイコスリラー)とはちょっと違うらしい。
精神的な恐怖を演出していれば、とはいえまだよくわかりませんねえ。
しかもこの記事、ほぼゲームの一覧が半端に英語版から訳されてるだけです。書きかけかよ。書きかけのnote記事がうなりを上げて残っている私が言うことじゃないですね。
と、ここで英語版に切り替えてみると小説などでも具体例がありましたよ。
これを見るとトマス・ハリス「羊たちの沈黙」やロバート・ブロック「サイコ」といったサイコスリラーのほかにも、スティーヴン・キング「キャリー」「シャイニング」や鈴木光司「リング」といったスーパーナチュラルな要素を含む作品がサイコロジカルホラーとして挙げられています。
なのでこれを信じるなら、サイコロジカルホラーというのはスーパーナチュラルな要素の有無は問わない言葉のようですね。
でもこれじゃ何でもサイコロジカルホラーなんじゃねーの?「トム・ゴードンに恋した少女」ってホラーだっけ……?
よくわからなくなってきたので、ここで名前の上がったスティーヴン・キングに頼ってみましょう。
キャッスルロック経由サイレントヒル行
そもそも「霧深く先の見えない街を彷徨う」という本作の設定、スティーヴン・キングの「霧」やその映画化「ミスト」を思い出す方も多いのではないでしょうか。
おまけに、作中でサイレントヒルが位置するのはアメリカのメイン州。
キングがよく作品の舞台にする土地ですよ。
それもそのはずで、シリーズ1作目「サイレントヒル」は当初、スティーヴン・キング作品のゲーム化企画だったらしいのですね(「霧」のゲーム化なのかは不明)。
スティーヴン・キングはアメリカン・モダンホラーの代名詞的作家です。
キングの何がモダンかというと、幾つかの特徴があります。
例えば、特別な存在ではない一般人を主人公とすること。
特殊な空間ではない現代の町や村を主な舞台とすること。
そしてその世界観を構成するためのディテールを徹底して描きこむこと。
キングのホラーには現代の町で目にする商品などの固有名詞、あるいは現代のスラングなどが頻出します。クドいくらいに。
そうした現代のふつうの町やありふれた人間を丹念にしつこくクドく描き出したうえで、そこに次第に、吸血鬼やオバケや生ける屍や侵略宇宙人を登場させて見せる。
と、こう見ると変な作風ですねえ。
その作風がどんな考えのもとに出来ているか、というと中々複雑です。
ちょっと長くなりますが、キングのホラー評論本「死の舞踏」にこんな話があります。
まずはスティーヴンスンの古典「ジーキル博士とハイド氏」について。
人間性をアポロン的・ディオニュソス的とギリシャ神話のアナロジーによって表現するのはニーチェの哲学が元です。
下記ページがまとまってますね。
これだけなら人間のなかの二面性の話ですが、キングはこれをかなり拡張した論を展開します。
次のは科学技術への恐怖を描く「テクノホラー」についての話。
キングのホラー論は複雑なのですが、ひとつのキーとなるのがこの「アポロン的存在(理性/精神力)とディオニュソス的存在(感情/激情/官能)の対立」。
キングが現代社会・一般人を執拗に描いているのはそのアポロン的存在=日常性を表現するためという側面がありそうですね。
ここで最初の話に戻るのですが、「サイコロジカルホラー」とは何なのかというのはここにポイントがあると思います。
人間の中の激情も破壊や殺戮を行う怪物も、人間の中のアポロン的存在、つまり理性等と対立し、脅かすディオニュソス的存在である。
それはとりもなおさず、恐怖の対象である。
理性に対しての恐怖を与えるホラー。
それがつまりサイコロジカルホラーです。
おお、やっとなんとなくわかった……ような気がしますよ。
で、「サイレントヒル2」も、やはりこうした系譜の中にある作品であるといえます。
主人公は全くの一般人、舞台も現代アメリカのいち都市。
道具立てはいかにもアポロン的存在です。
では、本作におけるディオニュソス的存在とは何なのでしょう。
それはゲームを始めればすぐ分かるかもしれないし、あるいは――
ともあれラストに至る頃には、本作がたしかにキングに通じるアメリカン・モダンホラーの系譜に連なる作品であるということもわかってくるはずです。それだけは断言できます。
ジャパニーズ・アメリカン・モダン・ホラー・ゲーム(なんやそれ)
といっても、本作は元々日本のコナミで開発されたゲームです(リメイク版は海外のデベロッパー制作ですが)。
まさに、SH2を傑作の高みに押し上げているのは「日本で作られたゲームである」と言う点だと思うのです。
ただ、この日本的というのはいわゆる"Jホラー"とかのものとは異なります。演出や題材の面では、本作は先述のキングの作法に連なるガチガチのアメリカンモダンホラーです。
これがどういうことかについてはネタバレ感想部分で後述します。
ということでやっと作品の話です。
ネタバレなし感想
ストーリーについて
本作のストーリーの特色というと、「置いてけぼり」と言えると思います。
上記のあらすじを見ても、なにか掴みどころのない感じがあるでしょう。
そして普通の(はずの)街の中に現れる怪物、そして謎解きギミック。
ジェイムスは当たり前のように戦ったり謎解きしたりするわけですが、プレイヤーはそうはいかないでしょう。
なにかおかしな違和感というか、まさに霧の中に置いてけぼりにされたままジェイムスが進んでいく様を見せられている感覚といえるでしょうか。
まあそこはゲームだしねえ……といえるものなのかすらわからないまま。
お話が進むと混沌ぶりはますます進行します。
街の陽は落ちて暗くなっていき、霧がさらに立ち込める。
そしてジェイムスが進む道は、輪をかけておかしなことになっていきます。
おかしなところにある無限階段を降りたり、唐突にある大穴に落っこちたりと、理解を超えた進行を見せ始めます。
これは現実かはたまた非現実か、現世なのかあるいは異世界なのか。
やはりプレイヤーを置いてけぼりにしたまま物語とジェイムスはずんずんと進行していきます。
前に述べたような「アポロン的・ディオニュソス的」という観点で捉えるなら、怪物の存在はもちろんですが、主人公すら含めた世界そのものがどんどんディオニュソス的存在になっていくのです。
安心できる場所などなく、これはまさにサイコロジカルホラーといえるところでしょう。
そんなわけでディオニュソス的世界に置いてけぼりにされてしまうプレイヤー。
では本作はプレイヤーを置いてけぼりにしたまま終わってしまうのか。
そうではありません。
クライマックスに待ち受ける展開は、プレイヤーを置いてけぼりにしてきたからこそ大きなインパクト、そして納得感を与えるものとなっているのです。
本リメイクは技術の向上に伴い、この奇怪な世界観の描写力が非常に高いものになっています。
つまり、プレイヤーの置いてけぼりっぷりも非常に高まり、道中の演出としてはもちろんなところ、結末の印象もより強いものになっています。
本作を気にいれるかどうかは、この置いてけぼりっぷりと後述の閉塞感に耐えられるかどうかでしょう。
詳しくは後述のネタバレ感想にて。
ゲームとして
ゲームとしての進化も見逃せないところです。
そもそも原作「サイレントヒル2」、ゲームとしてはあんまり面白くありません(少なくとも今見ると)。
原作は初期「バイオハザード」に影響を受けた俯瞰視点のゲームで、探索がメインとなった作品です。流石に今遊ぶと単調で厳しい。
原作でのゲームの流れといえば、
ウロウロする→敵を木材で殴る→ウロウロする→敵を木材で殴る→(繰り返し)→ストーリーが進む→ウロウロする→敵を鉄パイプで殴る→(繰り返し)…
というわけで、面白いストーリーを見るために単調なゲームをやる印象が強いものでした。
で、本リメイクは当然とはいえ、アクション性が強化されています。
基本は木材のような近接武器での接近戦となりますが、原作と違いブンブン振り回すだけではなく回避アクションを交えての判断力を迫られます。
それが一般成人男性とは思えぬ高性能な回避アクションなのがちょっと気になりますが、あまり攻撃を食らいやすくても困るのでOKです。
遠距離武器も手に入るものの銃弾は豊富とは言えないので、どこで使うかのリソース管理の駆け引きも重要になります。これはキツイというところでショットガンを撃ったりするのも爽快感があってよい。
1対多のシチュエーションも多く、そうした立ち回りが楽しいシステムに進化しています。
ただし、敵を倒してもアイテムがもらえるわけではないので、場合によっては戦わずにスルーする選択肢なども考える必要があります。
ん?こう考えると、戦闘は初期バイオハザードの方針を進化させたもののような気も……。
さてもう一つ進化した点が、TPS視点によって実現した圧倒的な閉塞感の表現です。
ダンジョンの探索を進めていくと内部の地形が変わっていき、行動範囲が制限されていきます。
これを俯瞰ではなくTPS視点で、迷子になりながら徘徊する事自体がイヤな感じ満点。
ディオニュソス的なおかしな世界への没入感は素晴らしいところで、全体の暗さと雰囲気も相まって、閉鎖空間の強烈な閉塞感が味わえます(ゲームとしては余計な場所にいかなくていいので親切でもあるのですが)。
これが実は戦闘システムの変化よりも大きな進化点だと思います。
この圧倒的な閉塞感により、このゲームはプレイヤーの心理を否応なしに責め立てる、たしかに「サイコロジカルホラー」となっていると思います。
それがただイヤなだけではなく、しっかりと必然性をもってストーリーにも結びついているというのは大きなポイントでしょう。
というわけでここからはネタバレ感想です。
!以下はネタバレ感想になります!
作品の詳細部分に触れるため、未プレイの方はお気をつけください。
ネタバレ感想
ミステリ・ホラーゲーム「サイレントヒル2」
本作のストーリーは、終盤に至ってミステリ・ホラーとしての姿をあらわにします。
その中心を占めるのは、もちろん「メアリーはジェイムス自身が殺害していた」という事実。
これが開示されることでお話は表面的なストーリーから大きく形を変えます。
それはジェイムスという存在自体への大きな反転となっている。
主人公たるジェイムスは一見、スティーヴン・キングのいうアポロン的存在に思えます。
しかしここに至って、ジェイムスこそがディオニュソス的存在そのものであったと言うことがわかるわけです。
ディオニュソス的と思えていた作品世界自体も、ジェイムスのディオニュソス的側面の産み出した副次的なものに過ぎないとも。
つまり、この作品は「ジーキル博士とハイド氏」につながる、人間の内面を巡るアポロンとディオニュソスの物語であるということが判明するのです。
もちろんこれを示唆する伏線は充分すぎるほど盛り込まれています。
とくにわかりやすいのは下記のシーンでしょう。
リメイクによってよりそれぞれのシーンの意味合いが明確になった部分があり、ストーリーの完成度を高めているように思います。
敵が初登場するシーン
バケモノが登場したところで、ジェイムスはうろたえるでもなく妙に冷静に木材を引っ剥がして応戦します。
なんか変ですね。戦闘訓練を受けたバイオハザードの主人公も最初はゾンビにビビってるのが普通な気がしますが。
それに敵をしばき倒した後に吐くセリフが「どちらにせよ人間じゃない」。あまりショックを受けた感じがないんですよねえ。
ゲーム内の描写も要注意です。倒した敵を執拗に死体蹴りできるようになっているんですよね(ガラスを割りたい場所の近くだとすげえ邪魔)。アクションゲームとしては邪魔な要素です。
これは意図的で、ジェイムスの持つ暴力性をゲーム上常に表現し続けることが目的なのではないかと思います。それがこの真相を否応なく受け入れさせるものになっているのではないか。
迷宮でマリアの死体を発見するシーン
後半辿り着く謎の空間(ゲームでの名称は「迷宮」)に何故か刑務所の面会室があり、病院で殺されたはずのマリアが再登場。その後しばらく進めて面会室の逆側に到着すると、マリアはなぜかまた死んでいます。
このときのマリアは顔が醜く変形した姿で横たわっており、メアリーの死亡時の姿ーーつまりジェイムスが殺した際の姿を思わせるものになっています。
ジェイムスも奇妙に動揺した様子を見せており、殺害時の記憶が蘇りつつあることを匂わせています。
この場所が刑務所を模していることの意味は言うまでもないでしょう。
エディーの殺害後のシーン
これは原作から存在する、最後の大ヒントとなる手がかりです。
襲いかかってきたエディーを返り討ちにしたジェイムスは、「人を殺してしまった」と呟きながらふと妙な表情を浮かべます。
普通は銃を使って殺したはずなのに(近接武器でも倒せますが)、なぜか両手のひらを見つめながらーーまるで、両手を使って殺した感触が残っているかのように。
ここでジェイムスはほぼメアリーの殺害を思い出したと思われます。
人間を殺すという行為の反復が、最後の決めてになっているのでしょう。
エディーのシーンは「意外な犯人」を隠そうというにはあまりにも露骨な示唆といえます。
しかしこう真相が見え見えになることが、即ちジェイムスにとってそれが流れがたい事実として迫っていることを表現しているとも思える。
だからこの見え見えさはこのゲームではとても正しい。
本作は、殺人者・ジェイムスが自らの罪を再認識する様を描いたものであり、ゲームのストーリー自体がその解明の過程となっているのです。
置いてけぼりから拾ってもらえた話
ここで大きな意味を持ってくるのが、全体を占めるプレイヤーの置いてけぼりっぷりになるのです。
真実から目を背け、認識せずにいたジェイムス。霧の中に置いてけぼりにされ、よくわからないまま物語を追ったプレイヤー。
その真実を知らない視点2つは、このクライマックスに至って突如がっちりと合一するのです。
ある意味不親切、感情移入を妨げているように思えた置いてけぼりっぷりは、ジェイムスという主人公を描くため、そしてラストでプレイヤーと一体化させるために完全に必然的なものであったと、ここでわかるわけですね。
こうしたいわゆる「信頼できない語り手」はミステリでもしばしば使われる仕掛けですが、本作はゲームとしてそれを活かしきっていると思います。
使い慣れないはずの武器を駆使して怪物を倒し、変てこで複雑な謎解きをこなし、おまけに大抵は物も言わずに突き進む主人公。
そんな、考えてみれば妙な存在。
その「ゲームの都合」のような存在に、本作のストーリーは必然的なWHYを与えていると言えるのです。
話を戻しまして。
結末を見るとこのお話ほぼ全てがジェイムスの妄想、というか夢オチだったみたいにも見えますが、そうではなく一応街にまつわるスーパーナチュラルな設定が存在するようです(他のシリーズ作品(SH1・SH3)を見るとなんとなく分かる)。
ですがいずれにせよ、物語としては「逃げ続けた事実と向き合う」という現実に通じるお話です。
自分の罪から逃避し続けた人間が、結局はそれと相対せざるを得なくなるという物語。
本作はホラーの外皮とミステリの構造を持ちつつも、本質的にはそうした内的なドラマと言えます。
そりゃあ「サイコロジカルホラー」ですからね。
Unveiling Myself
このお話の構造を暗示するようなシーンも複数あります。
本作は開幕から早速、ジェイムスが鏡に写った自分を見つめるシーンから始まります。自分の中の真実を見つめる話であることが示唆されているのです。
これは原作から同じですが、まさに人間に内在する二面性――つまりアポロン的存在とディオニュソス的存在をそのまま表しているともいえます。
リメイク版で追加されたシーンにも印象的な示唆があります。
謎解きの仕掛けは、毎度布をかぶって登場しますね。毎度お披露目式のように布を取っ払うのは天丼ギャグのようですがちゃんと意味があります。
英語では真実を明らかにすることをunveil、つまり覆いを取ると言います。
つまり上記は、まったく文字通りの絵面。
ジェイムスの隠された(自らも認識していない)ディオニュソス的部分が一連の出来事によって明らかにされていくことを、かなり直接的に表したものだといえるでしょう。
"Why did you――"
先述の通り伏線の仕込みはしっかりしているため、真相の開示は印象深いものとして機能しています。
ここではその先について考えてみます。
整理が必要な「なぜ」がいくつかあります。
まず、
ジェイムスはなぜメアリーを殺したのか。
これは簡単に結論が出せるものではないでしょう。
作中からは色々な動機が想像できますが、一つに絞り込めるものではないですね。
(ネット上の感想をみるとこれを「介護疲れ」とあっさりと結論づけているものが散見しますが、これは余りに安易な見方だ、とは予め言っておきます)
本作を読んでいくうえでは、この動機の微妙さを頭に入れておく必要があります。
もう少し深堀りできそうなのが、以下の点。
メアリーはなぜ「3年前に病気で死んだ」ことになったのか。
マリアはなぜ表れたのか。
怪物はなぜ表れたのか。
ちょっと順を追って見ていきましょう。
メアリーはなぜ「3年前に病気で死んだ」ことになったのか。
作品冒頭を思い出すと、3年前に死んだメアリーから手紙が来たとされます。当然事実ではありません。
サイレントヒルでの出来事はジェイムスの心理が生み出したものだということが示唆されます。この認識/記憶もその一つと見ていいでしょう。
ではなぜこんな認識が生まれたのでしょうか。
さて、「3年前に病気で死んだメアリー」は2つに分割できますね。
「3年前に死んだメアリー」と、「病気で死んだメアリー」です。それぞれについて考えてみましょう。
まず、「病気で死んだメアリー」は、ジェイムスにとって何の意味を持つでしょうか。
これは簡単です。
「メアリーは自分が殺した」という事実からの逃避です。
そして、「3年前に死んだメアリー」はどうでしょうか。
3年前というのは、言うまでもなくメアリーが病気になった時期です。
ということは。
ジェイムスにとってメアリーは、3年前に病気になった時点で死んでいた。
この認識は、つまりそういうことだと言えないでしょうか。
そしてこの話は次の疑問に繋がります。
マリアはなぜ表れたのか。
マリアがジェイムスにとって、メアリーの代替となる存在であるのは間違いないでしょう。
ただ、結末を考えると「メアリーに会いたい」という願望の結果現れたとは言えないように思えます。
まず考えられるのが、ジェイムスの自分の罪からの逃避です。
「自分がメアリーを殺した」ということをジェイムスは結末近くまで認識していません。
その事実を認識したくないがため、生きているメアリーの代替が必要だったと考えられます。
マリアが、ジェイムスの手によらない形で繰り返し死ぬことになるのもそれが理由です。
ジェイムスはメアリーの殺害を認識しつつあるものの、自分の手によるものだということからは目を逸らし続けているわけですね。
ですがそもそも、なぜメアリーでなくてマリアなのか。
「メアリーに似ている」とされるマリアですが、どれくらい似ているでしょうか。
マリアは派手でセクシーな服装やメイクをした活発な女性。
有り体にいえば、セックスアピールの強い女性です。
上記の特徴に、とくにメアリーに当てはまるものがありません。
つまりマリアは、顔以外メアリーに何一つ似ていないのです。
さて、マリアはジェイムスの願望が形になったものであると推測できます。
もしもジェイムスが願望するのがメアリーであるなら、これほどメアリーとかけ離れた人物がなぜ生み出されるのか。
それも、アポロンとディオニュソスの理屈をもとにすれば簡単に説明ができます。
結末で明かされる、ジェイムスの中のディオニュソス的存在。
キングの言葉を借りれば、
お祭り好きで、肉欲のかたまりで、人間性の堕落した部分を司るディオニュソス的存在。
セックスアピールの強い女性を求めたのは、ジェイムスのディオニュソス的存在、つまり肉欲である。となりそうです。
メアリーへの願望と肉欲が合わさった結果、2つがくっついた存在が生み出された、と考えてよいでしょう
さて話を戻すと、サイレントヒルに来て以降のジェイムスにとって、メアリーは3年前に死んだ人間でした。実際には3年前は病気になった時期。
これらを考え合わせてみると。
3年前に病気になったメアリーは、ジェイムスの性愛の対象ではなくなりました。
だから、ジェイムスの中のディオニュソス的存在(官能/肉欲への願望)にとって、メアリーは当然3年前に死んでいるのです。
ジェイムスは、少なくともジェイムスの中のディオニュソス的存在は、性愛の対象としてのメアリーを願望していた。
だから現れたのはマリアであった。
よし、これでスッキリしましたね。
結論:
マリアは、ジェイムスの逃避と同時に、メアリーに対する願望が生み出した存在である。
怪物はなぜ表れたのか。
多くの怪物が女性の性的な面を、怪物との闘いがしばしば女性への暴力を想起させる点については(先述のマリアについてと被るため)ここではスルーします。
三角頭をはじめ怪物がなぜ存在するかはジェイムスが自ら多くを語っています。
三角頭との決戦の前、ジェイムスは意味ありげな言葉を吐きます(下記は英語台詞とその拙訳です)。
ジェイムスは全部わかっているようですが、見ているこちらにはさっぱりです。
まとめると「ジェイムスは三角頭を必要としていたが、もう必要なくなった」、うーん?
実はこのシーンの台詞、原作ではかなり異なっています。
これが原作の台詞。
こっちはかなり分かりやすいですね(直接的すぎるからリメイクでは曖昧になったのかもしれません)。
三角頭はジェイムスの罪悪感から、罰を与えるために誕生したーーつまり、ジェイムスの自罰的意識が形となったものであるとわかります。
要するに「自殺願望があるが死ぬ踏ん切りがつかないので、殺してくれる存在が欲しかった」となります。
これについては他の怪物にも共通するところでしょう。
ただし、大抵の弱い怪物(=ジェイムスに殺される怪物)は女性型である、という点には要注意で、書くとしたらまだ別記事で。
また三角頭がジェイムスはともかくマリアを繰り返し殺害するという点は、自己の分身として罪の意識を表しているようでありつつ、これも「メアリーを殺したのは自分ではない」という逃避の表れに見えます。
原作版に「真実を(=メアリーを殺害したのは自分だと)知った」という言葉があることからもそれがわかります。
とはいえ、まだよくわからないところは残ります。
「お前は必要なくなった」というのはどういう意味を持っているのか。
エンディングについて(一つはハートフォード、もう一つはーー)
そろそろこの話も大詰めです。
もう一度、ジェイムスが三角頭に向けた台詞を思い出してみましょう。
「お前はもう必要ない」に続いて放たれた、I'm ready. というのはどういう意味でしょうか。
三角頭との戦いへの意思表示に見えますが、それだけでしょうか?
原作版はこれ。
「準備ができてる」のは、何に対してでしょうか。
「けりをつける」とは、なんのことなのでしょうか?
それはわかりません(^q^ )
……木材でシバかれそうなので言い添えましょう。
一つには絞れない、ということです。
それは解釈が分かれるから?
いえいえ、ちょっと違います。
実際に複数の意味が存在するからです。
おや、なぜそんなことになるのでしょうか?
それはもちろん、
ゲームだから。
小説や映画はふつう、ストーリーはひとつしかありません。
ですがゲームにはそうでないものもあります。
エンディングが分岐するからです。
といっても本作のエンディング分岐は、途中からまるで別の話が展開するものではありません。
ジェイムズが「メアリーは自分が殺した」という事実を知り(思い出し)、三角頭を倒す所まで本作のストーリーは同一です。
エンディングが分岐するのはその後(通常3エンドは)。
それじゃストーリーは大して変わらなそう、に見えますがそうではありません。
ここまで述べたような疑問の答えらしきものがあるのは、そこなのです。
というわけでエンディングのお話です。
!以下にはエンディング分岐のネタバレがあります!
未見のエンディングがある方はお気をつけください。
基本となるエンディングは"In Water" "Maria" "Leave"の3つ。
先述の通りストーリーの大詰めまでは同じお話です。
では3つのエンディングは、どう違うのか。
思い出す必要があるのは、終盤でジェイムスが三角頭へ投げた
「お前はもう必要ない」
「準備はできてる」
この言葉が、何を意味するかです。
エンディング分岐の鍵がそこにあるわけです。
では各エンディングについて見ていきます。
・"In Water"エンディング : 自罰
ラスボスとなったマリアを倒すと、いきなり場面が飛んでジェイムスは冒頭乗ってきた車の中。そのまま湖に車ごと沈んだことが示唆され、物語は幕となります。
ジェイムスは元々こうするつもりだった(車にメアリーの死体を積んできたと思われる描写がある)ようなので、結局は街の中を長々と回り道をしただけで、結局元の木阿弥という幕引きです。
唐突に車に戻ってくるので、一番夢オチっぽく見えるエンディングでもあります。
死体ごと車を不法投棄するのは勘弁してほしいですね。
それはともかく、ここで表れているのは三角頭に象徴されていた自罰的意識がそのまま自罰=自殺という行動に結実したという点です。
元々自殺するつもりだったが踏み切れずに、誰かに殺してほしがっていた、という心理が三角頭を生み出したと考えると。
自罰=自殺を自ら実行する意思を固めるに至った=「準備はできてる」から、三角頭は「もう必要ない」のです。
これはシンプル。
このエンディングでのジェイムスの行動は、メアリーが手紙に記した遺志を完全に無視する形での自己完結を見せた幕引きです。
なお、原作では確かラストにメアリーとの短い対話があったのですが、今作ではそれが全くなくなっています。
これにより、メアリーの意思の無視や自己完結といった印象がより強まったエンディングになっていると言えそうです。
・"Maria"エンディング : 逃避
このエンディングで特徴的なのはもちろん、ラスボスがメアリーである点。最後の戦いに先立つ対話にも重要な点があります。
自分を何故殺したのかと問うメアリーに、ジェイムスは「君を楽にしてやりたかった」と動機を述べます。
それが真実の一片である可能性はありますが、ここで重要なのはジェイムスが自分の殺人を正当化していることです。
つまり、罪の意識と自罰的意識がなくなっていることがわかるのです。
罪の意識がなくなったから、罰を与えてくれる三角頭は「もう必要ない」のです。
そう弁明されたメアリーは「違う、私のことが憎かったからだ」と反駁します。
おそらく、どちらかというならそのほうが真実に近いのでしょう。
そして、ジェイムスはメアリーを改めて殺害します。
こうして、無事ジェイムスは自分の望むメアリー、即ちマリアを手に入れて物語は幕となります。
マリアを、つまり自分の願望の結晶を手に入れたジェイムスにとって、メアリーは乗り越えるべき障害でしかないのですーー「自分の人生を取り戻す」のにとても邪魔な。
さらにこのエンディングは他と違い、メアリーからの手紙の内容は明らかにならずに終わります(マリアから手渡されるにもかかわらず)。
その理由は言うまでもないですね。
そんなものはもうどうでもいいからです。
マリアは最後にメアリーと似た咳込みを見せますが、ジェイムスは「咳をなんとかしないとな」とボソリと呟いて終わり。
これもまた逃避の表れであるように思えますが、新たな殺人へ至る示唆とも取れなくはありません。
罪からの逃避、願望への逃避といったものがむき出しに表れた結末がこれ、となるでしょう。
"Leave"エンディング : 贖罪
これは今までの2つと明らかに異なった内容です。
このエンディングのみ、ラスボス戦後にメアリーとの短い対話があります。
そこでジェイムスは「君が憎かった」「自分の人生を取り返したかった」と殺害の動機を告白し、謝罪の言葉が語られます。
これはMariaエンディングと明確な対比で、そこに正当化は見られません。
もちろんこの告白が動機の全てを語っているとは限りませんが、
重要なのは、ジェイムスが殺人の正当化も、罪からの逃避もしないという点。
とはいえIn Waterエンディングのように自罰へ走るかというと、そのエンディングとも対比が見られます。
メアリーがローラへの手紙に託していたとおり、ジェイムスはローラの面倒を見ることを示唆しての幕引きとなります。
メアリーの意思をガン無視した"In Water"とは対象的に、それを尊重して贖罪を行う遺志を見せるわけです。
贖罪の意思を固め、死による自罰は不要になったから三角頭は「もういらない」。
罪を受け入れる「準備はできてる」のです。
逃避、願望、自罰といったものを乗り越えたうえでの結末がこれに当たるといえるでしょう。
……ところでエディーの死体はどうなったんでしょう。あのまま冷凍して出荷ですか。まあいいや。
というわけで。
各エンディングは、ジェイムスの「お前はもう必要ない」「準備はできてる」という言葉にどんな意味が込められていたか――
つまり、一連の出来事の帰結としてジェイムスがどんな意識を持つに至ったかが分かれたものになっている事がわかります。
こうしたマルチエンディングがあれば、「どれが正史=正当なエンディングなのか」という話が出るもの。
しかし特に本作に関しては、そんな議論に意味は無い、というのが私の考えです。
本作のエンディングは特定の選択肢やアイテムではなく、「ライフを高く保った/低く保った」などの細かな行動で分岐する仕組み(らしい)です。
つまり、一連の行動を通してジェイムスがどんな意識に至ったか。
それが幕引きを分けることになります。
長い道中から導かれる必然的な帰結としての結末というわけ。
だから、
分岐した時点でどれも正しい結末であり、
分岐しなかった時点でどれも間違った結末
というべきでしょう。
一つの「正史」が決まってしまうなら、本作の価値は大きく減じてしまうと私は考えます。
そしてここに、モダンホラーでありミステリでありゲームである本作の美点があると思うのです。
モダンホラーであることで、普通の人間の中にある心理の暗部を抉り、ホラーにしかできない強度の高い人間ドラマを展開することができている。
ミステリであることで、物語の構図の反転、すなわち人物像の反転により、印象深く人間を描くことができる。
そしてゲームであることでプレイヤーの行動により全く異なった、しかし必然性を持った幕引きを見せる。
アメリカンモダンホラー的世界観の中、
日本で先駆的に発展したミステリの仕掛けを導入し、
さらにゲームとして作られたこと。
それらが絶妙に噛み合いこの作品は構成されています。
アメリカンモダンホラーであり、
日本ミステリであり、
ゲームである。
この1つも欠ければ、「サイレントヒル2」は存在し得ない作品なのです。
おまけ:サイレントヒル冬の古本市
というわけで蛇足の蛇足。
本作にはお遊び的にちょっとしたオマージュが入れ込まれた部分があります。
それは街の通りの名前でして、いずれも小説家の名前から取られています。
ヴァクス・ロード: アンドリュー・ヴァクス
ハードボイルド/私立探偵小説系統の作家ですが、特徴的なのは幼児虐待・性的虐待を繰り返し扱った点です(元々警察官や弁護士として幼児虐待・性的虐待に対峙していた人でもあります)。
というと、サイレントヒル2と関連する所も結構見えてくるのではないでしょうか。
ウィルツ・ロード: デイヴィッド・ウィルツ
サンダース・ストリート: ローレンス・サンダース
元々の作風は何でも屋的な職人作家ですが、上記「大罪」シリーズ作品をはじめとしてサイコスリラーの先駆けとなった作家の一人です。
リンジー・ストリート: デイヴィッド・L.リンジー
マーティン・ストリート: デイヴィッド・マーティン
日本で翻訳されたサイコスリラー作品の中でも「嘘、そして沈黙」は高く評価されたようです。
カッツ・ストリート: ウィリアム・カッツ
この人も何でも屋系の作家ですが、ややサイコスリラーが目立つ作家です。といってもそれは流行に乗ったという面が大きいかも。
二ーリィー・ストリート: リチャード・二ーリィ
ミステリ的な大仕掛けを盛り込んで異常心理を描くサイコスリラーの代表格的作家です。
日本の作家で言えば、折原一(影響を公言しています)や貫井徳郎に通じる作家といえばわかりますかね。
ソール・ストリート: ジョン・ソール
このソールも異常心理や幼児虐待を頻繁に扱う作家です。
作風としては怪奇小説系もサイコスリラーもあるものの、どっちにしろ話は安定して陰惨で暗いアレ。
ハリス・ストリート: トマス・ハリス
言わずとしれたサイコスリラーの象徴・レクター博士の生みの親。
レンデル・ストリート: ルース・レンデル
サイコ系とはちょっと違うかも知れませんが、犯罪者の心理の書き込みが印象的な作家です。
キャロル・ストリート: ジョナサン・キャロル
……とまあ、ほとんどがミステリ、とくにサイコスリラー系の作家ばかり。
幻想・怪奇小説寄りなのはジョナサン・キャロルや、あとジョン・ソールくらいじゃないでしょうか。
しかしこうして作品を並べてみると、ほとんどがかなり昔に絶版。おまけに電子書籍もないものばかり。
こうしたくすぐりから作品に興味を持っても、古本を探すしか手段がないのは残念ですね。リンジーやウィルツは私も読んだことないです
さてこの話は何度目かわかりませんが、「サイレントヒル2」は「サイコロジカルホラー」です。
本作の結末を考えてみると、これは結局サイコスリラーのお話ですね。
こんなところにサイコスリラーの作家名を仕込んでいるあたり、その意図は明らか。
サイレントヒルの道を繋いだのはサイコスリラーの系譜なのです。
海外のサイコスリラーに詳しい人ならすぐにピンとくるかもしれませんね。
このゲームは、物語を「サイコ」の側から、「サイコ」を操作して自分の手で体験するという構造を持っています。
これもやはり、ゲームならではの構造性といっていいでしょう。
先行する小説を意識することで、それがより浮き彫りになってくるのです。