カイ説 般若心経 7
梵:iha Śāriputra sarvadharmāḥ śūnyatālakṣaṇā
漢:舎利子。是諸法空相。
日:弟子よ。全ての事物は、《空》として現れる。
「sarva-dharma」を直訳すると「すべての法」となる。仏教で言う《法》=「dharma」は非常に広範な意味を持つ。自然の法則から社会的な法律、秩序、道徳、宗教、物事、性格、本質等々、人間が自己の世界観や価値観で識別し、認定した全ての事象を指している。
さて、次の「śūnyatālakṣaṇā」=《空相》であるが、非常に訳し難い部分である。素直に訳せば「《空》の相をとる」となるが、そのまますぎて現代語訳としては・・・。
「śūnyatālakṣaṇā」は「śūnyatā」+「lakṣaṇā」の合成語で、「śūnyatā」はお馴染みの《空》である。(《空性》とも訳されるが今回は不採用)
「lakṣaṇā」は「特徴」「~の形をとる」「~として現れる」等の意味であり、かつ、語根の「lakṣ」が「観察する」という意味なので、「見てわかるような特徴がある」というイメージの語である。なので「相」の漢語が当てられている訳なのだが、はたして現代人に「相」で通じるだろうか?
と言うことで「《空》として現れる。」を採用してみた。《空》は「意味も価値もない、空っぽの只の現象」なので、全ての事物が「只の現象」として現出しているということである。
まあ、当たり前の話ではある。
《空》を説明するときに「実体がない」というような表現をする。「実体」とは何かという話になるのであるが、もちろん物質的な存在のことではない。仏教的な「実体」とは、それがそれであることを示す永遠不変で完全に独立した、核心的で本質的な意味や価値がある「実体」のことである。
元々はインドで輪廻転生する主体としての《アートマン》=「真の自己」のことを指していた。それが時代とともに人間から森羅万象に拡大解釈されていき、物事の本性とか本質を指して「実体」というようになり、そのような「実体」は人間が考えて認識しているだけで、実際には存在しないことを表現する言葉として《空》というようになったのである。