カイ説 般若心経 2
梵:Namas Sarvajñāya. āryāvalokiteśvaro bodhisattvo
gaṃbhīrāyāṃ prajñāpāramitāyāṃ caryāṃ caramāṇo
漢:観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。
日:この世に顕現された自在者たる《菩薩》が、
深く《般若波羅蜜多》での振る舞いを実践した時、
今日《観自在》=「āvalokiteśvara」は《菩薩》の名前として確立してしまっているが、今回の現代語訳では採用しなかった。
「āvalokiteśvara」を直訳すれば「下界に見えられた自在者」となるので、次に続く《菩薩》=「bodhisattva」を形容する語として現代語訳した。
何かしらの権能と個性を持った信仰の対象としての《菩薩》ではなく、仏教者の普遍的な理想像としての《菩薩》であることを示すためである。
《菩薩》=「bodhisattva」とは「bodhi」+「sattva」の合成語である。「bodhi」とは「悟り」、「sattva」とは「存在」で、「悟りの存在」「悟った者」を表す。《菩薩》とは悟りを開いて《仏陀》(自在者)となる資格を持つが、涅槃(上界)に入らず、俗世(下界)にて衆生を《苦》から救済する存在である。仏陀が俗世で活動するためのアバターと言えるかもしれない。
次に「《般若波羅蜜多》での振る舞い」とは何か? さらに、それは「深く」実践することであるらしい。「深く」行うことに該当する実践とは何か?
表題の解説の時に示した通り、それは表層の認識を超えて深く、詳細に認知の過程を分析することである。なぜ自分がそのように認識しているのか、自分が何を感じ、どのように考え、そう判断しているのかを《彼岸》の側から客観的に分析・観察することである。