カイ説 般若心経 1


梵:Prajñā-pāramitā-hṛdaya

漢:摩訶般若波羅蜜多心経

日:偉大なる、《般若波羅蜜多》の核心の教え。


 現在日本で流布している般若心経は唐の時代に、あの西遊記の三蔵法師で有名な玄奘三蔵が長旅の末、天竺から持ち帰り漢訳したものである。260余文字と短いながらも仏教の核心的教えが凝縮されて記述されている。

 まあ、その辺の詳しいところはWikipediaでも参照されたい。


 とりあえず、順番通り最初の単語《摩訶》から始めよう。

 《摩訶》は「偉大」の意味で、サンスクリット語の表題を見る限り、《摩訶》は漢訳時に追加されたもので、《般若波羅蜜多心経》の部分に係る語である。短さの割に核心的な内容を持つ般若心経の、重要度を表すために追加されたのであろう。

 以上。(雑っ?!)


 なお、この先核心的でないと私が判断した部分については解説が無いか、雑になるので悪しからずw 


 さて、今回の現代語訳でも玄奘に倣い《般若波羅蜜多》は無理に訳さずそのまま採用した。

 訳せなかったというわけではなく、経末まで何度も出てくるので現代語に訳すと煩雑になり読みにくくなるので、すでに仏教用語として確立していると見做して、解説文にて意味を補足する形とした。


 というわけで解説。《般若波羅蜜多》は《般若》と《波羅蜜多》の2つの語で構成される。


 《般若》とは大抵は単に「智慧」と訳される。

 元となるサンンスクリット語は「prajñā」で、「知る」を意味する「jñā」に「前」とか「先」を表す接頭辞「pra」がくっついて一語となっている。直訳すれば、「前に知る」ということになるが、当然「未来を前もって知る」という意味ではない。


 人間が《苦》を認識する時、条件反射的に一瞬で終わらせるその認識の前段階にある認知の過程を、意識して分析する「智慧」のことである。つまり《般若》とは「自分の主観的で反射的な思考を客観的で意識的に分析する智慧」である。

 現代人的には「智慧」を検証する「智慧」として、「メタ智慧」あるいは「メタ認知」という言い方でも通じるかもしれないが、今一つな気がしたので《般若》のままとした。  


 次に《波羅蜜多》であるが、この語は「到彼岸」と「完成」の二種類の解釈がある。それぞれの解釈の詳細はWikipedia等に詳しいので、そちらを参照してほしい。ここでは伝統的な解釈である「到彼岸」の方を採用した。なぜなら般若心経は《彼岸》に到った《菩薩》の話だからである。さらには《波羅蜜多》の直訳は「《彼岸》へ到らせた(こと)」である。

 

 《彼岸》とは「向こう側」のことであり、仏教が目指す悟りの境地のことである。

 一般的には「あの世」と解釈されることが多いが、本来は《苦》の原因となる《三毒》=「欲望」「嫌悪」「妄想」を川の流れに喩えて、その川を渡りきった向こう岸にある、「動揺のない穏やかな心の状態」のことである。


 ここでは解説しないが《波羅蜜》には《十波羅蜜》《六波羅蜜》《四波羅蜜》等があり、《般若波羅蜜》だけでない。(興味があればWikipedia等で調べていただければと思う)

 総じて《波羅蜜》とは《彼岸》へ到るための実践のような意味合いで解釈・理解されてる。

 なお、《多》は過去受動分詞(~された)を作る文法的接尾辞「tā」のサンスクリット語の音写である。


 それらを踏まえて《般若波羅蜜多》を直訳すれば、「自己の主観的で反射的な思考を客観的で意識的に分析する智慧が、動揺のない穏やかな心の状態へ到らせた(こと)」 である。

 もっとざっくり意訳すると「メタ智慧によって悟りに到った(その見地)」となる。


 さて、最後に《心》は本来は「hṛdaya」=「心臓」のことで、転じて物事の「核心」である。ここでは、《般若波羅蜜多》の核心である。


 般若心経の大半は「~は空である」「~は無である」と言う説教じみた言葉の繰り返しである。《空》とは何かという解説もないし、こうしろ、ああしろというような教示も無い。

 しかし、この経が「《彼岸》に到った《菩薩》の側からの話」であるという視点を持てば、少し見え方が変わってくる。般若心経は《菩薩》が《彼岸》へ到った後に、《彼岸》の側から《此岸》の物事を見た時の見え方を示したものなのである。


 どうしてそうなっているのか?

 それは、悟りの境地に到った者の見地を真似る(学ぶ)ことで、自分もその境地に到ることができるという考えによる。子が親の真似をして、生き方を学ぶように。弟子が師匠の振る舞いを真似て、その技を学ぶように。あるいは、試験勉強をする時、先に解答例を見て真似ることで問題の解き方を学ぶように。「真似る」という学習法は、今日でも「ロールプレイング」や「モデリング」として、様々な場面で有効な手法として活かされている。


 般若心経は《観自在菩薩》の振る舞い=物事の見方を学ぶことで《悟り》を開き《苦》を乗り越えよう、という実践のための経典なのである。

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