カイ説 般若心経 15
梵:cittāvaraṇa-nāstitvād atrasto viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ.
漢:無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
日:心を妨げるものがないが故に、恐怖もなく、全ての間違った考えや思い込みから離れて、落ち着いて穏やかな究極の心の状態にある。
認知の歪みがなくなれば恐怖がなくなる。
「恐怖」がなくなる?
「atrasto」を直訳すれば「恐怖させられることがない」といった意味になる。では何に「恐怖させられる」のであろうか? それが「心を妨げるもの」=「認知の歪み」によって生じる諸々の「価値観」に「恐怖させられる」のである。「恐怖」も所詮は概念的な存在であり、何らかの「価値基準」(痛苦、貧困、失敗等)によって「恐怖させられている」のである。
その「価値基準」および、それを生み出す「認知の歪み」を《空》の観点によって正せば「恐怖」は受け入れるべき「只の現象」となる。そして「恐怖」を「只の現象」として受け入れたならば「恐怖」は「消滅」し、心が解放され、落ち着いて穏やかな究極の心の状態=《究竟涅槃》に到る。
さて、《遠離一切顛倒夢想》の話は飛ばすわけにはいかないので、解説せざるをえまい。
まず《一切顛倒夢想》を「全ての間違った考えや思い込み」と訳しているが、これまで再三説明してきた通り「認知の歪み」によって生じた「価値観」のことである。そして、《菩薩》は《般若波羅蜜多》によりその歪んだ「価値観」から遠く離れていると言うことになる。
《遠離一切顛倒夢想》を般若心経の存在意義=「《菩薩》の振る舞い、物事の見方を学ぶ」という観点から解釈し直すと、この句に込められたもう一つの意図が読み解ける。「《菩薩》のように、全ての間違った考えや思い込みや、その源泉から遠く離れなさい」と言う教示でもある。
この《苦》を解決するためにまず「遠く離れる」という手段は《菩薩》も取る効果的な手段である。物理的、精神的に《苦》から「遠く離れる」を「逃避」とみる向きもある。確かに《苦》から目をそらせて見ないふりをするというのならば「逃避」と言えるだろう。しかし、《菩薩》は《苦》から目をそらすのではなく、距離をとり広い視野を確保し、先入観を排して観察・分析してその根源に対処するのであるから「逃避」とは言えない。
まあ「逃避」も「概念」でしかないので、《空》の見地からすれば逃げたからといってそれに引け目等を感じる必要もない。逃げることが必要な場合もある。しかし、逃げたと思われると社会的評価や人間関係に傷がつくのもまた現実である。なので《菩薩》は広い視野と深い分析によって、様々な利害を天秤にかけ調整して《中道》を歩むのである。
と言うわけで、まず離れて観察するというのは有効な手段なのである。