医師を志した原点と、死生観と「優しさ」
死生観を考えるようになったきっかけ
死生学から見たやさしさとは何だろうかと考え始めたのは、医者になろうと本気で考え始めた頃でした。人の役に立てる仕事に就きたい。困っている人を目の前にした時に、何もできない自分ではいたくない。
最もヒトが助けを必要とするのは、どんな時だろう…。
それは、死と向き合うとき。なんとなく、そう思いました。
ヒーローみたいな、スーパードクターにはなれないけれど、静かに寄り添い、最後まで見捨てないドクターもいてもいいはず。そんな想いからの出発でした。
医学部1年生の時、介護施設での実習がありました。そこでの、あるお年寄りのお言葉が今も忘れられません。そこには、認知症の方が多くおられ、同じ話を何度も聞いたり、食事の介助をしたり、初めての経験がいくつもありました。そして最も印象的だったのが、「やさしいお医者さんになってください」と何度も言われるおばあさんの言葉。どこか寂しさが入り混じるような、やさしい表情でした。
手術や薬で、病気をしっかり治すのも、医者としてのやさしさ。苦痛を取り除き、安心と満足を届けることこそ、医療におけるやさしさです。
苦痛には、肉体的なものと、精神的なものがあります。安らかさにも、体と心の2通りがあります。どちらも人間にとって大切なものです。
死生観と優しさ
ちょうどそんなことを考えていた頃、太宰治のきれいな言葉に出会いました。
寂しさに気づいてくれる人は、寂しさを知っている人です。
つらさに寄り添ってくれる人は、きっとツラい経験を乗り越えた人。
特に医療職は、自分の経験が誰かに対するやさしさに直結しやすい仕事です。
「やさしさを持った人は、それ以上の悲しみを持っている」とは、明石家さんまさんの名言。
憂いや悲しみを知るやさしさを持ちたい、そんな医者になりたいと思いました。
「憂い」という詩もあります。作者は、相田みつをさん。
語らないのは、訴えがないのではない。
こういう憂いに敏感なことこそ、優しさだと思います。
苦しみには、表面に表しやすいものと、表面に現れにくいものがあります。憂い、寂しさ、侘しさ、つらさ、悲しさは、後者のことが多いでしょう。
特に、死を見つめる心は、未知の領域だけに言葉にしづらいものがあります。それは言葉よりも「沈黙」という形で表現されることが少なくありません。しかし「沈黙」は、えてして共有することが難しいものです。
耐えきれずに、言葉を発してしまったり、その場を離れたりしたくなるものです。
その意味で、忍耐もまたやさしさであり、言葉に表されない、声なき声に耳を傾けることも、大切な“やさしさのカタチ”です。
声なき声に耳を傾け、
表出されずとも奥底にある悲しみやつらさに気づけるような、
そんな人間でありたい、
そんな死生観をもちたいと思いました。