Episode 100 「アデレードの空を飛行中」
アデレードハイスクール卒業後、University of South Australia (南オーストラリア大学。通称UniSA)という大学に進学した。
当時(私がハイスクールを卒業した2002年の時点で)アデレードには3つの大学があった。アデレード大学、南オーストラリア大学、そしてフリンダース大学である。
ちなみにこのフリンダース大学には、日本人初の宇宙飛行士である毛利衛さんが通っていたとのことである。尚、私がハイスクールに在学中(確か、2001年辺りだった様に記憶する)、その毛利さんが母校(フリンダース大学)を訪れるとのことで講演会を聞きに行った事があった。確か、街中からバスに揺られ、フリンダース大学まで行ったのだ(カズまたはタカヒロのどちらかと一緒に行った様な記憶がある。
尚、最近よく思うのだが、当時は(今とは違い)カメラが付いているスマホがポケットには入っていなかった。つまり、「気軽に、色んな写真を撮る(つまり、後でそれらの写真を見返せる)」という行為をしていなかった。
もちろん、デジカメは存在していたが、デジカメを常に肌身離さず携帯する様な事はしていなかった。従って、頭の中だけを頼りに過去の記憶を辿る必要があり、時としてどうしても思い出せないという状況が多々ある。
さて、この三つの大学が存在する中で、私がなぜ南オーストラリア大学に行く事にしたのかという理由に関しては、単純明快、その大学には航空学科があったからである。つまり、日本で言うところの航空大学のようなコース(詳しくは、応用理科学部航空学科)があったのが、唯一、南オーストラリア大学であった事からこの大学に決めたのである。
大学には車で通っていた。私が通っていたキャンパスは家からは比較的離近く、車で15分程だったと記憶する。大学では数学及び物理、気象などの科目がメインだった。それらの科目に併せて、ナビゲーションなどの(更に航空学科の生徒に特化した)ニッチな科目も選択していた。
私が通っていたMawson Lakesキャンパスにはソフトウェアエンジニア系の学生が多くいた。従って、インド人をはじめとする、アジア人の生徒(男性の比率が高め。否、「高め」なんていう生やさしいものでは無かった)が多かった印象がある。
大学時代の思い出は、「ひたすら勉強をしていた」である。尚、プライマリースクールからハイスクールへ進学した際に感じたギャップの比では無い衝撃を、ハイスクールから大学に進学した際には感じた。
やはり、大学となるとまた(全てにおける)レベルがハイスクールのそれとは異なり非常に苦労した思い出がある。
余談になるが、ハイスクールに在籍中していた頃は、(Episode095にて触れられた様)スケーターが好む様なパンツ(ズボン)を好んで履いていた。そう、Dickiesの様なブランドのパンツだ。当時夢中になったバンド(そして、もちろん今でもそれらのバンドの音楽は聴くが)のメンバー(例えば、Blink 182のTom DelongeやTravis Barker、あるいはHi-STANDARDのKen Yokoyamaなど)がDickiesのパンツを履いていたので、真似をしていたのである。
しかしながら、(もちろん私よりも数年先に大学に進学していた一番上の姉から「大学に行ったら、そんなダボダボの(つまり、そんな「幼い」という意味を込めて)ズボン履いている人誰もいないよ」と、つまり、「もうハイスクールとは違うんだよ、何してんの」という意味が込められた忠告を受けた事があった。
それを鵜呑みにして、「そうか、大学はやっぱりハイスクールとは違うんだ。よし、細めのパンツを履いていこう」と、オリエンテーションの日はリーバイスのジーンズ(つまり、ダボダボでないパンツ)を履いて行った記憶がある。尚、後々気づく事になったのだが、大学においても、全員が全員、Dickiesの様なパンツを履いていない、という事でもなかった。
勉強面で言うと特に物理が(控えめに言っても)非常に難しかった。尚、あまりの難しさに、とある(物理の)教科の単位が取れないという状況も発生してしまった。
自分の他にも数名同じような状況に陥っていた中で、ピーターという中国からの留学生が混じっていた。彼は、大学とは全く別の、専門学校の物理のコースを自分で見つけてきては、応用理科学部航空学科のトップの教授に対し、「このコースを夜間に通い単位を取得するので、その単位を今回落とした物理の授業の単位として認めて欲しいのですか、それで良いですか?」と相談に押しかけた。
教授からの承諾をもらい、私もそのやり方にあやかる形をとった。この時、改めて中国人のしぶとさというか、生きる強さまたは執念、あるいはめげない気持ち、のようなものを目の当たりにした。日本人である私は、「物理の単位が取れなかった、どうしよう」と悩んでいる間に、中国人である彼は自ら考え、他のオプションで乗り切る、という事を素早く実行したのである。正直、感心した。中国人の強さのようなものを改めて感じた。
授業の合間には、多くの時間をキャンパス内の図書館にて課題や予習をする事に充てていた。尚、図書館のパソコンまたはコンピューター室のパソコンにてThe Band Has No Nameという名のバンド(奥田民生及びSPARKS GO GOというバンドのメンバーから成り立つバンド)の「The Band Has No NameⅡ(2005年発売)」という、(このバンドにとっての)二枚目のCDの発売を記念して特別サイトが立ち上がっており、このサイトにあった動画を見ていた記憶がなぜか思い出される。
週末には実際の飛行訓練も行われた。初めて飛行機を操縦したのは、シングルエンジン(単発エンジン)のPiper Warriorという、四人乗りの飛行機だった。
訓練の初期段階においては、一回の飛行訓練は基本一時間でインストラクターとペアで行う。先ずは「サーキット」と呼ばれる、滑走路の上空を飛行する練習が行われる。サーキットの練習にて離陸及び着陸を繰り返し反復的に訓練するのである。
この訓練を個人差はあるが、15回~20回行った。つまり、飛行時間で約15−20時間を経たあたりで、ファーストソロ、つまり、インストラクターが乗っていない状態で、自分一人で飛行を行うというフェーズがある。
尚、飛行機の大きさであったり、その空港のルールなど、様々なファクターによって異なるのだが、地上からの距離(高さ)が指定された中で飛行は行われる。
ちなみに、訓練が行われていたパラフィールド空港においては、サーキットは地上から1,000フィート(約305メートル)の高さで飛行する、という規制がある。
しかしながらファーストソロということもあり、緊張していたのであろう、地上で見ていたインストラクター曰く私は700フィートあたり(つまり、本来飛行すべきである高さから約100メートルも低い高さで)で飛行していた、とのことであった。そんなファーストソロであった。
大学時代に一番仲良くなったのは、マレーシアからの留学生であったTan Sie Hai(タン・スィー・ハイ)という男だった。彼とは、授業などでペアを組んで行う課題などの際は毎回一緒に取り組んだ。
また、授業が終わった際には、課題の続きなどをよくうちに来ては共に頭を悩ませ、力を合わせ一生懸命やっていた。
専攻する必要があった科目の一つにプログラミングの授業もあり、QBASICという(定かではないが)マイクロソフト社製プログラミング言語をやらなければならないという状況があった。
その時は、特に彼には大変お世話になった。因みに彼は南オーストラリア大学卒業後、マレーシアに戻り、小さな航空会社の地上で勤務をし、数年後マレーシア国内の小規模な航空会社に入社した。
その後、更に飛行訓練を積み、ライセンスを取得したとのことである。今ではキャセーパシフィック航空の副機長として世界を飛び回っている。日本にも仕事または旅行で来る機会がある際には一緒にご飯を食べに行っている。今では世界的に有名な航空会社の副機長として世界中を飛び回る彼だが、お酒が入り普通に話していると、大学生時代の彼そのものである。