Episode 021 「怖いから逃げるのではなく、逃げるから怖いのだ」
ペニントンプライマリースクール(Episode014参照)には、どれくらい通ったのだろうか。恐らく、約1年くらいと記憶する。朝のグモニ、そう例の専任タクシードライバー(Episode014参照)に始まり、授業を受け、休み時間にはサッカー(Episode009参照)をし、週末(たまに放課後も)にはマリンコ(Episode016参照)やホング、またはエックと一緒に遊んだ。このルーティンを通じ、だいぶオーストラリアの生活にも慣れた感触があった。
しかしながら、この時の私は正に井の中の蛙であった。「英語が通じる」と思っていたがそれはあくまでも、「英語を母国語としない同士」の範囲に限っての事であった。この事実を痛感することになったのは、ハイスクールに入学した時だった。尚、ハイスクールに入学するか、しないかくらいのタイミング(恐らく13歳くらい)でサッカークラブに入る事になった。きっかけは、記憶が定かではないのでが、確か家の近くの公園で一人でサッカーの練習をしていた時、または休日に父親とテニスをしていた時のどちらかであったが、どちらにせよ、たまたまそこ(芝生が広がる公園)にいた男の子(確か、旧ユーゴスラビア人だったと記憶する)と友達になった事がキッカケだった。
彼と話してみると、どうやらサッカークラブに入っているとのことだった。詳しく聞いてみると、彼が所属するチームは「Croydon Kings(クロイドン・キングス)」というサッカーチームとの事である(尚、Croydonとは、アデレード市内における地名)。そのサッカークラブの場所は、家から車で5分程度の場所に在った。初めての練習日などの記憶は曖昧だが、憶えているのは、その設備の良さであった。ほんの一、二年前まで(アデレードに来る前)は、日本の小学校の少年団でサッカーをしていた(Episode002参照)。つまり、学校の校庭(もちろん芝生ではなく、訳のわからない、土の上に細かい石だか何かを散りばめた、「ダスト」と呼ばれる校庭だった。今でも思うが、あの「ダスト」の正体は一体何だったのだろうか。
そんな環境にて主に練習や試合をしていた環境から、突然、クラブハウス付きの、そこそこしっかりとしたサッカーチームに入団する事になった。ロッカールームがあり、グラウンドはしっかりと管理された芝生、また、ナイターでの練習などが可能な様に、ライトもしっかりと設備されていた。当時13歳の私にとって、その興奮度合いと言ったら、尋常ではなかった。「盆と正月が一緒に来た様だ」という形容の仕方では到底間に合わないくらい興奮した。
練習は週に二回程度で、試合は週末に行われた。もちろん、毎週試合の場所は異なるため、各自が現地集合となる。その都度、母親に車(当時は、車の前部にシルバーのバンパーが付いた、えんじ色のFordのステーションワゴンだった)で送り迎えをしてもらっていた。このチームにはオーストラリア人の他に、イタリア人もいた。そもそも、このCroydon Kings(クロイドン・キングス)というチームは、セミプロのチームである。(当時私が入団した時の名称である)Croydon Kings(クロイドン・キングス)という名称になったのは1993年の事らしく、それまではPolonia Adelaide Sports Club(ポローニア・アデレード・スポーツクラブ)と名称だったとの事。
クラブに入団したその年、シーズンの終わりに表彰式(フォーマルディナー形式で)が行われた。保護者やコーチなど、チームに関わる人たちが数多く出席した。私は、U-13でプレーしていた。そして、年間最優秀選手として賞を受け取る事になった。このクラブでは優秀な選手が沢山いた。また、テクニックもさる事ながら、私はやはりフィジカル面でも圧倒的に負けていた。当時(1997〜8年頃)の私は、恐らく(身長は)150cmもなかったと思われる。そんな中、他のプレーヤーは(U-13)ですでに、160cm後半から170cm(若しくはそれ以上)は余裕であった様に思われる。側から見ると、大人に混じって子供(私)がプレーをしているかの様に映ったに違いない。
尚、偶然なのだが、浦和レッズ(私は小学生の時浦和レッズのファン(Episode016参照)だった。因みに浦和生まれである)はその昔Croydon Kingsと練習試合を行った事があった。その事に気付いたのは、このクラブを辞めてから、ずっと時間が経った頃だった。そもそも、どうやってその事に気付いたかと言うと、とある一本のビデオ(VHS)である。その昔(小学4、5年生の時なので、1994年でまたは1995年である)とある浦和レッズのビデオを、テープが擦り切れるまで見ていたという事があった。1994年または1995年のシーズンを振り返る形のビデオだった。当時の浦和レッズの監督は横山監督。確か、ルンメニゲ、ブッフバルト、バインなどの超有名ドイツ人プレーヤーも在籍していた時期の浦和レッズだった。このビデオの中に、「アデレードに合宿に行った」という内容が納められており、アデレードの街の風景、及びCroydon Kingsとの練習試合の様子が映っていた。もちろんの事、当時1994年(または1995年)、小学4、5年生だった私は、その1、2年後(1996年)に自身がオーストラリアに引っ越すことになり、また浦和レッズが練習試合を行った相手(Croydon King)に入団することになるなんて知る由もなかった。偶然なのか、必然だったのか。人生とは面白いものである。もちろん、例えば、ロンドンやニューヨークなどの、世界的に知名度の高い都市であれば、特に驚くことはなかったと思うが、アデレードという、これまた日本人の間では知名度の(控えめに言っても圧倒的に)低い都市であった為、必要以上に偶然、と感じてしまったのかもしれない。
このチーム(Croydon Kinds)では、多くの場合(私は)ミッドフィールダーを担当する事が多かったのだが、一時期、トップ(センターフォワード)を任されて居た時期があった。とある試合で、デービットという、同じくフォワードの男の子に、キックオフ寸前(つまり、センターサークルの中心でボールを目の前にし片足をボールに掛けている状態で主審の(試合開始の)ホイッスルを待っている数秒間)にとある事を言われた。「I know that you're scared, but I'm scared too. Let's go(試合前は緊張するよな。でも、オレも同じ様にこわいよ。でもさ、やってやろうぜ!!)」と言われたのだった。この言葉には、救われたし、また気合が入った。そして、その時思った。「そうか、怖いから逃げるのではなく、逃げたいと思うから怖いんだ」と。
こうして、20数年以上経った今(2024年)でもしっかりと憶えている。リアルな言葉というのはこの様に時を経ても心に刻まれているものなのだろう。尚、このチームでも、やはりアジア人は私以外にいなかった。(ほぼ毎週行われた)試合をする相手のチームにも、アジア人はほとんど(若しくは一人として)居た記憶がない。では、アデレードにいる他のアジア人の子供等は、当時、どんなスポーツをやっていたのか?そう、バドミントンと卓球である。
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