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Episode 009 「”スポーツは国境を越える”が全く大袈裟ではない事を実感した28年前の事」

今からかれこれ約28年前の1996年の9月26日、僕は日本を離れオーストラリアはアデレードという街に引っ越しをした(Episode 001参照)。そして、現地の小学校に通い始めた(Episode 004参照)。苦痛の休み時間(Episode006参照 )を過ごしていた中、一人の男の子(Episode 008参照)トムが、そんな僕を救ってくれた。そう、「一緒にサッカーをしよう」という一言で。

私がサッカーを始めたのは小学校に上がる前、保育園の時からサッカーボールを蹴っていたと記憶する。具体的に何がきっかけ(例えば、父親が好きで、その影響で始めた、といった事ではなかった)でサッカーが好きになったのかは不明なのだが、気づいたらサッカーが好きになっていた。小学校に入ってもその熱は冷めず、通っていた小学校のサッカー少年団には二年生から入団が可能だったので、二年生になると直ぐに入団した。なぜ、野球では無く、バスケでもなく、はたまたチェスや囲碁でもなくサッカーだったのか。なぜ、サッカーでなければならなかったのか。それは分からない。

私が小学2年生だったのは、今から31年前の1993年。Jリーグが発足した年である。もちろんこの影響もあり、それまでは他のスポーツ(例えば、特に野球)が人気だったと思われる中、93年から少年団に入団する人数が急激に増えた。また、おそらくこの時期だったと思うが、僕は漫画の「蒼き伝説 シュート」にすっかりハマっていた。そう、伝説の11人抜きをしてゴールを決めた直後に倒れて亡くなってしまう、あの久保さんが主人公、そして彼がトシに「トシ、サッカー好きか?」と訊く、あの「蒼き伝説 シュート」(1990年~96年に連載。第1部は全33巻)である。もちろん、サッカー関連のものならなんでも好きになっていたか、というとそうでもない。キャプテン翼にはハマらなかったが(そして時代もリアルタイムではなかった)、「シュート」には魅せられた。

久保さんこと久保嘉晴(くぼよしはる)(掛川高校2年主将。中学の頃ジュニアユースの代表にも選ばれ、また、得点王に輝いたほどの選手。「自由なサッカー」、「トータルフットボール」を目指して、同じヤマハFC所属の神谷達を誘い、新設校であった掛川高校へと入学)もさることながら、他にも続々と様々なキャラクターが登場する漫画であった。短気な性格でトシに雑務などを押し付けたりと、初期では(後輩にとって)嫌な先輩であったが、久保の相棒というだけありサッカーの技術はトップクラスであり、そして後に亡き久保の代わりにキャプテンとなった神谷篤司(かみやあつし)。5教科480点を取る程の頭脳明晰な上、運動能力も抜群で100メートルを10秒台で走る俊足の天才、平松和広(ひらまつかずひろ)。高校サッカー界の帝王と呼ばれた、藤田東高校の加納隆次(かのうりゅうじ)。他にも、野性的感覚と脅威の身体能力の持ち主、掛川高校の(GK)白石健二(しらいしけんじ)、ブラジル帰りのテクニシャンで同じく掛川高校の(MF)馬堀圭吾(まほりけいご)、高校1年にも関わらずレギュラーになっており柔軟性のあるドリブルから繰り出される「ダブルクライフターン」を得意とする藤田東高校の(FW)松下浩(まつしたひろし)、静岡県でもトップクラスの実力者である掛川北高校の(MF)斉木誠(さいきまこと)、女たらしな性格だが、優れたテクニックの持ち主であり「フィールドの魔術師」および「静岡のフリット」と呼ばれた清水学苑高校の(FW)芹沢直茂(せりざわなおしげ)、大会屈指の守備を誇る鉄壁の守りを主体とし、「北海の壁」の異名を持つ北海道鶴ヶ崎学園高校の(DF)氷室明彦(ひむろあきひこ)、宣言したゴール位置を寸分狂うことなく狙うなど、超高校級のプレイから「キング」の異名を持つ帝光学園高校の(MF)岩上順司(いわがみじゅんじ)、主人公であるトシ(田中俊彦/たなかとしひこ)の「幻の左」に匹敵する「黄金の左」を有し、「関東のマラドーナ」の異名を持つ帝光学園高校の(FW)恩田朝之(おんだともゆき)、家庭が貧しく兄弟も多かったためサッカーボールを買ってもらえずゴムボールでサッカーをしていたことから身についた自由自在なボールコントロールでボールに回転を与えず不規則な変化を生み出す「ナックルシュート」を得意とする掛川北高校の(FW)広瀬清隆(ひろせきよたか)、「パンテーラ(豹)」の異名を持ち、高校の試合ではPK以外無失点の記録を保持する全国No.1、帝光学園高校の(GK)草薙京吾(くさなぎきょうご)、高校サッカー界No.1のディフェンダーで「オフサイドマスター」の異名を持つほどラインコントロールを得意とする、前山工業高校の(DF)東雄吾(あずまゆうご)、「マジックシザーズ」で知られる双子の兄である高橋克久(たかはしかつひさ)と双子の弟の高橋信人(たかはしのぶと)は豊川高校出身、などなど。

自分の中では、当時レジェンダリーであったマンガだ。
(※No copyright infringement is intended)

私が通っていた小学校の少年団の我々の一つ上の学年では、恐らく15人いるかいないか、という程の人数であった中、我々の学年ではその約三倍の45人くらい居た。やはり、我々が入団した年(93年)に発足したJリーグの影響が余りにも大きかったと思われる。ご存知の通りサッカーは11人で行うスポーツであり、(小学校のチームにおいては)ベンチ入りメンバーを含めても、15,6人が適切な人数ではないかと思われる。そんな中、我々の学年は45人もいたということもあり、二つのチームに分かれた。AチームとBチームに分かれたのである。入団して即二つのチームに分かれたかどうかは記憶が曖昧になっているが、中学年(4年生)になった頃には、AチームとBチームに分かれていた気がする。尚、私はAチームに所属しており、身体は小さかったものの、それなりに頑張っていたのでレギュラーではあった。今となっては、AチームだろうがBチームだろうが、所詮、埼玉県浦和市(現さいたま市)の地元の一小学校におけるサッカー少年団でのことなんてほとんど何の意味も持たないことは重々に理解してはいるものの、当時の本人としては(例えばレギュラーであるか否か、など)あまりにも大事なことであった。それはもう、全てを賭けた一大事なのであった。

尚、私の小学校のサッカー少年時代のハイライトの一つに浦和駒場サッカースタジアムで試合をした、という思い出がある。当時、このスタジアムはJリーグの浦和レッズの本拠地スタジアムであった。何故、このスタジアムで試合をすることになったのかというと、つまりJリーグの公式戦が始まる前に、当日、前座の試合として小学校2校が選ばれたとのことである。尚、そもそも誰が主催をし、どうやって、何を基準に選ばれたのかなどの詳細は全く知らされていなかった(または、知らされてはいたが理解していなかったのか、もしくは単純に記憶にないのか)が、憧れていたプロサッカーチームである浦和レッズの本拠地であるスタジアムで試合ができるなんて、本当に夢の様な体験であった。

前座試合であった為、もちろん観客席は完全には埋まっていなかったが、それでも数千人は既に入っていたと思われる。試合内容など、もう記憶にはないが、唯一憶えているのは、私が出したスルーパスを受けたFWの選手(その選手も憶えていない)がペナルティーエリア内で倒され、PK獲得に繋がった、という記憶がある。たぶん。しかし、やはり普段自分たちが慣れていたサッカーコートのサイズ(つまり小学校の運動場など)とこのスタジアムのサイズ(もちろんプロ仕様)は(当然)全くサイズが異なった。走っても走っても全く自分が前に進んでいない様に思えた記憶がある。そう、ちょうど、夢の中で何かに追いかけられており、必死に逃げようとするも思い通りに足が動かず上手く走れない様な、あんな感じである。何はともあれ、非常に良い思い出になった事には間違いなく、非常に良い体験となった。

最前列の向かって右から2番目が私

この様に、サッカーをずっとやってきた者としては、1996年当時、アデレードに引っ越しをしたばかりで友達がいない中、「一緒にサッカーやる?」と誘ってくれた事に関しては、僕は感謝しきれない。そして、英語もろくに喋れない僕(Episode007 参照 )が、少なくともサッカーをしている休み時間だけは、楽しいひと時を過ごせたのは、サッカーというスポーツが持つ魅力なのであると実感した。そう、やはりスポーツは国境を超越するのである。


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