Episode 016 「マリンコと私。当時のインターネット及びゲーム事情」
ペニントンプライマリースクールで仲良くなったマリンコ(Episode015)と一緒に遊ぶことを通じて習った事の一つとして「インターネット」がある。よく、マリンコの家から、徒歩20分ほど離れた場所にある公共の図書館にてパソコンを予約し(当時は確か、一人30分という制限があった)インターネットで遊んでいた。1997年の事である。当時のネット回線はまだダイヤルアップ式(ナロウバンド)のもので、映像を読み込むにしても、数秒(いや、数十秒だったかもしれない)掛かっていたという記憶がある。しかし、やはり当時(1997年)初めてインターネットというものに触れ、それはそれは楽しくて仕方なかった。因みにブラウザーは確か、Netscape Navigator(ネットスケープナビゲーター)だった。検索サイトは、確かAltavista(オルタビスタ)を使っていた。尚、Google(グーグル)は1998年まで、存在すらしていなかった。この様にして、インターネットだけを使用する為に図書館へ行く、という今(2024年現在)のこの時代からは少しイメージがし難い時代があったのだなとノスタルジックな気持ちになる。
その後、マリンコの家にもついにネットが繋がったという事が同年(1997年)にあり、彼の家に遊びに行っては「10分交代制」で、二人で交互にPCの前に座り「インターネット」という未知なるものに釘付けになっていた。尚、我が家でも確か同年(1997年)にネットは繋がったと思われる。PCに関しては、父親が日本を発つ時(1996年)に購入したFUJITSUのものだったと記憶する。当時、そのパソコンは30万円を超える程の金額だったらしい。95年にマイクロソフト社から発売された「Windows95」というOSで、その使いやすさからか、一般家庭にもPCが普及した時代だと思われる。
尚、少し後の話(1998年または99年頃)になるが、家にネット環境は整っていたはずなのだが、何故かその時も近くの図書館にインターネットを使いに行った、というおぼろげな記憶がある。今(2024年)から、たったの20数年も前の話(つまり、公共の図書館にネットを使いに行くという行為)とは思えない。いかに、この(約)20数年間(2000年前後から現在の2024年)で指数関数的に様々なテクノロジー関連の発展がなされたかが見て伺える。
マリンコの家ではテレビゲームでよく遊んだ。ゲーム機は、おそらくSEGAだったように記憶する。モータルコンバットという格闘ゲームのソフトでよく遊んだ。しかしながら、私は昔からゲームが得意でなく、もちろんほぼ毎回マリンコが勝利を収めていた。彼は、サブゼロというキャラクターをよく使っていた。サブゼロは、ちょうどストリートファイターにおける龍もしくはケンが得意とする「波動拳」を、氷に代えた技を持っていた。つまり、サブゼロが放つ氷(液状だったので、氷水)に当たると相手キャラクターは凍ってしまい、その場から数秒全く動けなくなってしまう。その隙に、パンチやらキックなどの攻撃をもろに喰らってしまうのである。マリンコはサゼロを使いよく私(私が選んだキャラクター)を凍らせた。非常にイライラした。
ゲームに飽きてくると、外でサッカーやハンドボール(Episode015参照)などをして遊んだ。尚、我が家の子供(姉2人、私、妹1人)がゲーム下手であるという事に関しては明確な理由があった。父親の教育方針の一つとして、「テレビゲームはダメ」というものがあった。その理由は、目が悪くなるからであった。(尚、後々知る事になったのだが、どうやら「目が悪くなるからゲームはダメ」という理由は表向きに理由だったらしく、本当の理由は、「ゲームには他の事(外で遊ぶなど)ができなくなってしまうくらいハマってしまう中毒性があるから」と本人から説明を受けたことがある。まぁ、今となっては、どちらでも良い話であるが)。その様な理由から、我が家にはゲーム機がなかったのだ。尚、当時私が小学生だった頃にゲーム機が家にないというその珍しさと言ったら尋常ではなかった。日本の小学校に通っていた時(Episode001を参照)の同じ学年(約170人)でも持っていない子は数えるくらいしか居なかったと思われる。
その反動かどうかは分からないが、私は(確か)14歳から15歳の1年間(1998〜1999年)のみ、ゲームに非常に興味を示した年が存在した。尚、プレーステーションや任天堂のゲームコンソールを用いたものではなく、PCゲームに興味を抱いていた。特に興味があった(ゲーム)ソフトは「Age of Empire」、 「Grand Theft Auto」、 「Diablo」、「FIFA 1998」の4つだった。「Grand Theft Auto」に関しては、見下ろし型ドライブゲームの形態であり、様々な(与えられた)ミッションをこなしていく、というゲームだった。ミッションに関しては、ギャング組織のボスから指示をもらいミッションをこなしていく、という具合だった。当然、そのミッションを実行する際には警察などに見つからない様、頭を使って実行しなければならなかった。いかにも、思春期の男の子が好みそうなゲームであった。尚、このゲームはGTAと略され、今尚(2024年)も世界中で(もちろん当時私がこのゲームで遊んでいたバージョンから遥かアップデートされた状態で)プレイされている、とのことだ。「Age of Empire」は歴史に忠実なユニットや設定を使用したストラテジーゲームである。石器時代から鉄器時代までを扱い、それぞれ独自の特色を持つ古代文明(漢、朝鮮、大和、シュメール、ヒッタイト、エジプト、ギリシャ、アッシリア、バビロニア、フェニキア、ペルシア、ミノアなど)をプレイする事が可能だった。自らの古代文明を選択し、対戦相手(コンピューター)の文明と戦う事になる。畑を耕し食料を確保するところから始まり、様々な時代を経て、武器などを作り、土地を開拓していくにあたり相手の文明と接触し、戦を行い、時代を築いていく(つまり、土地を制したり、など)、という具合だ。このゲームには相当魅せられた記憶がある。「Diablo」に関しては、複数人いる主人公(魔法が得意なキャラクター、剣を扱うのが得意なキャラクター、など)からキャラクターを選択し、様々なダンジェン(監獄、獄舎)に潜むモンスターなどを退治する、という単純明快(しかし、RPGゲームの金字塔、と言われている)なゲームである。「FIFA 1998」は同年にフランスで開催されたW杯に出場した国で対戦を行えるサッカーゲームだった。日本代表は98年に、史上初W杯を出場を決めたので、このゲームにて日本を選びプレイすることができた。しかしながら、弱小チームという評価の為、ゲーム内の選手は(走るのが)遅かったり、と、日本を選んでプレイしている私はイライラしていた。故に、強豪国(例えばブラジルなど)を選んでプレイするようになった。
尚、この(約)一年間を除くと、全くと言って良いほどゲームに対する興味は無かった。話を戻すが、このような事(父親の方針により)から、幼少期はゲームではなく、(その代わり、かはわからないが)寝ても覚めてもサッカー(Episode009参照)に明け暮れた。中休みも、昼休みも、放課後もサッカー一筋であった。マリンコの故郷、旧ユーゴスラビアのサッカーの英雄と言えばストイコビッチ、通称ピクシーである。彼は90年代半ばにJリーグの名古屋グランパスに所属し、その華麗なプレーで日本中を沸かせたのだ。その後、再度日本に監督として来る事にもなった。私はJリーグが大好きで、小学生の頃はよくJリーグの試合を観に様々なスタジアム(旧国立競技場、駒場競技場、大宮サッカースタジアムなど)に浦和レッズのユニフォームを着て応援にいっていた。因みにサッカーを始めた小学校2年生の時は、川崎ヴェルディが好きだった。当時(Jリーグ開幕当時の1993年)は、ラモス瑠偉、キングカズ、北沢、武田、ペレイラなどのスター選手が多く所属しており、無敵なチームであった。その後、具体的なタイミング及び理由は思い出せないのだが、自分の地元である浦和レッズを応援する様になった。当時は、試合のみならず浦和レッズの練習を(大原(地名)に)観に行くほど熱狂していた。練習場では、普段テレビを通じて見る選手が、目の前で練習をしているということでテンションは上がりっぱなしであった。また、練習が終わると、選手が続々と練習場から出ていくのであったが、その車種はベンツ、ベンツ、BMW、ベンツ、BMW、ベンツ、ボルボ・・・という具合に外車オンパレードであった。子供ながらに、これら外車は高級な車である、という事は認識していた。尚、当時(90年代)日本代表にも選ばれており、ミスターレッズと呼ばれていた福田正博選手に関してはポルシェに乗っていた。各選手が車で出てくるタイミングを狙い、大勢のファン(女性ファンとサッカー少年)が(駆け寄って)車を囲い込むのである。サイン色紙にサインをもらう者、レプリカユニフォームにサインをもらう者などが居る中、私はJリーグカードにサインをもらっていた。93年のJリーグ開幕をきっかけにJリーググッズは飛ぶように売れたのだ。当時、浦和駅周辺のデパートに在ったJリーグショップによく足を運んでは、キーホルダーや、旗など、様々なグッズを購入していた。これらブームの内の一つとして「Jリーグチップス」というお菓子がCalbeeから発売されていた。値段は50円でポテトチップスの袋の裏にはカードが一枚付いていた。このJリーグチップスの人気は当時社会問題にもなったほどである。つまり、カード欲しさにお店に置いてあるJリーグチップスのカードだけを取ってしまうか、またはカードが入っている袋が紙だったという事もあり、紙の袋を破りカードだけを盗む子供が続出したのだ。しかしながら、この問題に対しCalbee側も黙ってはいなかった。先ず、カードが入っている紙製の袋を、ビニール製の袋に変更、また、その(カードが入っている)袋をポテトチップスの袋と接着する際の接着剤を強力なものに変えたのだった。因みに、そんな私もこのカードをたくさん持っていた。Jリーグカードは、選手のカードの他に「当たりカード」というカードも存在した。これら当たりカードを集め、その枚数により(応募する事で)様々な景品も当たる仕組みになっていた。それら景品は、サッカーボールであったり、カードホルダーであったり。尚、カードホルダーに関しては市販のものも販売されており、周りの友達や私は狂った様にそのホルダーに好きなカードを大事に収納しては、お互いに自慢し合っていた。今(2024年時点)でもそのカードホルダーには浦和レッズの選手のサイン入りカードがぎっしりと詰まっている。尚、当時、放課後にサッカーをして遊ぶ事の他に、「カードをする」という呼び方で、それぞれが持っているカードを交換しあって遊ぶ様な事もしていた。
因みに、あれは小学校2、3年生の頃だったであろか、Jリーグチップスを購入し、友達のたけぼー(あだ名)の家(マンション)の階段付近で、我慢できずカードを開けてみた。そのカードをみて、心臓が飛び出そうなくらい興奮したおぼえがある。そう、当時の絶対的スタープレーヤー、カズ(三浦知良)のカードを引き当てたのだった。当時の、その興奮と言ったら、今の生活の中では喩えようがないに等しいくらい嬉しかったものだ。そう、今、仮に、「株で300万円儲けた!!」という状況を引き合いに出しても、まだ当時の興奮の方が遥かに大きいと思われる。
Jリーグが開幕して93年から数年間、浦和レッズは近年の活躍とは全く異なり「Jリーグのお荷物」などと呼ばれていた。それくらい試合に勝てなかった。それが今ではアジア全体で見ても有数のトップクラブチームである。当時からでは全く想像すらできない。因みに、幾つかのJリーグのチームはシーズンオフによくアデレード(Episode003参照)に合宿をしに来ていた。南半球に位置するオーストラリアは季節が日本と真逆であることから、Jリーグの様々なチームがアデレードに来ては合宿を行っていた。ストイコビッチが名古屋グランパスに在籍していた時期、アデレードに合宿に来たこともあり、その時は旧ユーゴスラビア出身のマリンコ(ペニントンプライマリースクールでの友達)と一緒に練習を見学しに行った。他には、浦和レッズやサンフレッチェ広島も来た。サンフレッチェ広島に関しては、サッカースクールの様な催し物もあり、選手と一緒にサッカーをした。その練習が終わった後、日本から来た記者の人に駒野選手(2010年W杯の準々決勝で惜しくもPKでデンマークに敗れた際にPKを外してしまった(ボールがクロスバーに直撃)、あの駒野選手である)と二人で写真を撮ってもらったのだ。併せて、日本代表の監督である森保選手(当時)とも写真を撮る事ができた。
因みに1998年のW杯(フランス大会)の直前の日本代表の合宿もアデレードで行われたのだった。キングカズが代表から外れるのはこの合宿の後の出来事である。尚、98年のフランス大会では、当時の加茂監督がチームの成績が良くないという理由で更迭されてしまい、その当時コーチであった岡田武史氏が監督になったのだ。通称岡ちゃん。この岡ちゃん、オーストラリアのニュースにてインタビューの様子が放送されていたが、英語で話していたにもかかわらず英語の字幕が出ていた。オーストラリアのテレビ局の気持ちも分からなくもないが、岡田監督がその事実を知ったら、少し不快な気持ちになるのではないかと、そう感じた。尚、近年でも、この人(岡ちゃん)のインタビュー動画などを聞きながらジョギングしたりする。非常に優秀な人であり、勉強になる。
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