東日本大震災から9年

おはようございます。

震災から9年経ちます。未だにこの時期のニュースや特集を見るのは辛いのでテレビは極力つけないようにしています。

あの瞬間、19歳の僕は東京駅で当時付き合っていた彼女と一緒でした。
電車が全部止まって、住んでいた学生寮まで2駅分歩いて帰りました。二人とも地元が盛岡だったので道中、家族に電話しましたが繋がりませんでした。"盛岡はさすがに大丈夫"自分達に言い聞かせていました。

その日、宅急便のアルバイトが入っていました。「今日も仕事ありますか?」という確認の電話も繋がりませんでした。彼女には申し訳ないけどカフェで時間を潰してもらって、バイトに行きました。学生寮では安否確認が行われていましたが、無視して仕事にいきました。いま思えば謎の義務感。

タワマンで配達をしました。エレベータも全部止まっていました。
その日は全部階段で配達しました。通常なら再配達の電話がかかってくるのですが、電話がつながらないし、午後の便も届かなかったのでサクッと終わりました。

「地元岩手だよね。心配でしょ、来なくても大丈夫だったよ」

社員さんに言われました。

「こんなときに配達してもらって、ごめんね。」

お客さんに言われました。

「こんなときに一人にしないで」

元カノに言われました。

電車が復旧したら家まで送るから辛抱してって説得したと思います。なんか、自分でも優先順位がめちゃくちゃになっていたなぁ。と思います。
バイトが終わり、電車も復旧。彼女の家まで大江戸線~京王線の乗り継ぎ。人生最大の満員電車。トラウマです。

家に着いてからニュースを見ると、津波の映像ばかり。小中高と同じ野球部だった友人が仙台に居たのでメールを送りました。電話はやっぱり繋がらなかったです。翌日、家族や友人から連絡が来て無事を確認できた時、めちゃくちゃ安心しました。

その年かな。申し込みは済んでいたので免許を取りに行きました。新潟で合宿免許。でも、自粛ムードで外出禁止。ほんとは、ボードにも行きたかったのですが、こっそりボウリングと温泉に抜け出したくらいです。
そして、その年に車を買いました。電車で彼女の家まで行くのが嫌になったので、車を買いました。

「自分にできることを何か1つでもやらなきゃ」

ふと思い立ち、高校の友人を誘って、いわき市のボランティアに車で行きました。いわき市は、少年野球時代に行った土地。高校野球部時代にも合宿で行った土地。内容は、津波で漂流したゴミ撤去だけでした。こんなんでいいのかなって思いながらも、ボランティアするのにも時間やお金がかかることを痛感しました。自分の力不足を感じました。

その翌年かな。いわき市へ一緒に行った友人を誘って大船渡に行きました。野球部時代に試合をしたグラウンドは跡形も残っていなかったです。1年じゃ復旧はほとんど進まないんだな。岩手で9年野球をしていたけど、対戦した沿岸地域出身者には行方不明になった人もいるんだろうな。
何とも言えないむなしさで胸が苦しくなりました。

9年経ったいまでも、被災者の方と向き合って、かけられる言葉が見つかりません。でも、少しでも地元に貢献したいなって気持ちで岩手県に戻りました。衰退産業とも言われている農業を学んでいるところです。岩手に戻ってから、色んな挫折も味わいました。
けど、悲しい気持ちも乗り越えなきゃいけない。必ずこの土地に僕が生きた証拠を残します。爪痕を残すまで生き抜こうと思います。
以上です。最後まで読んでいただきありがとうございました。


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中村友隆
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