ASDと電球交換から見る理解の壁
このポストが思いの外伸びてしまい色々と想定外な事が起きている。
まず、私がこのポストをした意図は良い本に出会えた喜びを共有したかっただけだし、この文章については我々ASD者の愛すべき悲しき凹凸としてとても愛おしく思っている。
実際に起きた事
①定型者からの「あるある」という同意
②「電球」や「オーブン」が例え話だと理解されていない
③一部のカサンドラ症候群の人やASDをよく思わない人達のASDへのヘイトに使われた事
④悪い事やイケナイ事として解釈される
①定型者からの「あるある」という同意について
これだけポストが伸びる(明らかに発達界隈を越えた拡散をされている)という事は定型者にとっても「電球を変えない」は多少はあるあるなのだろう。
しかし、私が伝えたいのはASD者が一つの問題に立ち向かう時の解決へのプロセスの中にある刺激やストレスの多さだ。
この文の場合、電球一つ替える事への困難が定型者より多く結果的に現状維持という謎の苦行に走るという話だ。
型番を調べる事が苦手かもしれない。
高い場所に登って上を見る事も辛いだろう。
普段置いてない場所に椅子などを置く事の変化も刺激かもしれない。
電球を買いに外出するのも刺激だし、店員と話す事になるかもしれない。
また、作業や焦点を切り替える事に疲労するASD的な無気力もあるだろう。
私が少し想像しただけでザッとこんな感じでASD者の受ける刺激やストレスが想像出来る。
決して怠惰や他人任せと言うわけではない。
ASD傾向が導く結果の話をすると、その結果(この場合電球を替えられない事)だけを見て定型者にも当てはまるよと言われてしまう。
②「電球」や「オーブン」が例え話だと理解されていないついて
上記で述べた通り、「電球」はASD者この困難を話す為の例え話である。
それがあまり伝わっていない引用リプなどが沢山届いて驚いている。
ただの電球あるあるとして、広まっている様だ。
「あるある」と思った定型者からすると「ASD」という文字にビビっただろうな。
よくある「私もASDかも!」が生まれた瞬間だ。
③一部のカサンドラ症候群の人やASDをよく思わない人達のASDへのヘイトに使われた事
これも全く予想外だったが、よく考えたらまぁ来るよねとは思う。
悪意を孕んだ人間はいて、攻撃対象を貶める弱みを常に探しているのだから…。
もう一度云うが私はこの文章を我々ASD者の愛すべき悲しき凹凸としてとても愛おしく思っている。
しかし、私が思っているより(これについては私がASDを愛し過ぎてるかもしれないが)世の中にはASDを弱みとして握ってくる人間がいるのだ。
主張の中には同居生活を想定して、「やりたくはないけど結果的に電球を替えられる側」が損をすると云う様な話だった。
これはなるほどと思った。
怠惰や他人任せに感じられるのだろう。
何度も言っているがASD者が「電球を替えるプロセスへの困難」は計り知れない。
それは怠惰でも他人任せの面倒臭さでもない。
「やりたくはないけど結果的に電球を替えられる側」と「ASD者の困難」の度合いは別物だと言いたい。
同居生活などの場合は、サポートを受けて一緒に電球交換ができると良いなと私は思う。
私とパートナーの場合は、お互いの苦手を補い合い出来る事をできる方がしたり、一緒に行う事で上手くやっている。
あとは、ASD者は感謝をしないとも書かれていた。
それも踏まえて「やった側が損」という事の様だ。
前の記事でも書いたがASD者は反応が薄い事があるのは理解できる。しかし感謝をしないは人格的な問題でありASD者とは関係がないのでないか?と思う。競覇的贈与とも関係してる様に感じる。
④悪い事やイケナイ事として解釈されるについて
「電球を交換できない」自分を恥じたリプも多くあった。中には定型者もいるのだろうけど。
これについても私はそうは思っていない。
悪い事でもイケナイ事でもない。
確かに電球を替えられずに暗闇で過ごす苦行を行うのは馬鹿げているが誰かに迷惑をかけたわけでもない。
私は「ASDっで電球も自分で替えられなくてダメなやつだよねー」と言いたかったわけではない。
①でも述べた様に、ASDには刺激やストレスによる困難が付き物だ。
自分なりの工夫やリカバリーが出来るのは良い所でもある。
以上、Xが140文字制限なのも関係しているので仕方ないのかもしれないが私のポストは余程キャッチーだったのだろう。意図しない方向にもバズったのだった。