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脳は何処に?

 おそらく、多分、僕は精神を傷つけ合うのが恋愛だと思っていた。二人にしか分からない傷をお互いにつけて、それを見せ合うことで得られる連帯感に閉じこもりながらいつ終わるかもわからない終わりを待つだけの営みだと思っていた。

 でも、多分、そうではなかった。僕等に特有のことでもそうではなかったし、一般的にもそうだろう。
 彼女は自らの精神が何よりも大事だった。自分以外の何物かによって、彼女の心の領域に傷つけられることを嫌がった。明確に口に出して、それを拒否していた。
 それは既に、心に出来た傷というものが、不可逆のものなのだと解っていたのかもしれないし、それをパートナーと共有していない部分の時間の辛さに耐えられないことを解っていたのかもしれない。いや解っていたと思う。
 とにかく、そういう違いから諸々のことが終わってしまった。僕はといえば、独り身になってからもう随分経過した。

 傷つけ合うということは、見返りを求める、という言葉にも、期待する、という言葉にも言い換えることができた。当時はただひたすら相手に見返りを求め続け、期待をし続けた。それが返ってこないとわかると、Twitterで秘匿されたはずの相手の内部にむざむざ侵入していって傷をつけあった。やられればやり返した。
 幾度も傷つけられてやっと、相手がもう限界だと言って、気づいたらその時にはすべてのことが終わっていた。最後の方にはお互いボロボロだった。

 どうしてこんな状態になるまで戦い続けてしまったのだろう?やめようと思えばやめることができた筈なのに。
 そんなことは問題ではなかった。此処にはただ、純然たる報いを受けるべきである、最初に始めてしまった僕の存在があった。

 報いを受けたのか?
 それは分からない。ただ、僕は今も、ずっと苦しみ続けている。
 別れたあとしばらく連絡を取らなくなった。僕はベッドから起きてすぐ大学へ、授業が終わるとそそくさと家に帰って、朝飛び出した形がそのまま残った布団に入って意識を失う、という、文字通り抜け殻みたいな日々を送っていた(本当に情けないことだと自分でも思うが、こういう生き方しかできなかったのだ!)。
 このような生活を送りながら成績は最悪を更新し続けていた。そんな調子である日Twitterをしていて、しばらく見えなかった相手の存在を、ふと掴んだ。余談だが、自分以外にこんなにネットストーキングが上手い人間が居たのかと思ったのが、当時の彼女だった。

 別れて以来、消息の取れなくなった相手の更新するTwitterが見つかってしまって、覗いた。すると、相手は付き合っていた頃のこういった傷のシステムを、完全に肉体に移植してしまったことを知った。彼女は自分の身体を傷つけることに走り、ポリアモリー的な概念を手に入れ、不特定多数の男と寝ていた。

 それを見たとき、僕がどう思ったか、と明らかにすることは、アンフェアであるし、罪に値する行為であるだろう。
 相手はそのことに対して僕に直接話をせず、僕を巻き込まなかったからである。付き合っている当時でさえも、そんな欲望を口にすることは無かった。彼女がそんなことを考えていて、ずっと隠していたなんて(言っていなかっただけかもしれないが)露ほども頭になかったのである。あくまでも僕が勝手に知ったことであり、そのことで咎められる人間は僕以外には、いなかったのである。

 なぜそんなことをしたか?という問いには、未だに答えることができない。しかし、僕が以前から思っていた、精神を傷つけ合うのが恋愛だ、という愚かな考えにのっとれば、自分に先に傷をつけておいてそれを相手に見せつけることができれば、相手も何か感じるところがあるだろうと思ったのかもしれない。
 ただ、僕ははなからそんな邪悪な気持ちでTwitterを覗いたのではなかったし、当時相手から「3ヶ月くらい経ったら復縁したい」と(どれくらいの本気度で言ったのかは分からない。彼女はたまに言うことがコロコロ変わるところはあった。)言われて少しくらいは歩み寄ってくれることを期待していたから、それほど深刻な(僕にとってという意味)自体にはなっていないだろうと思ったのである。

 同情してもらえるように書いたとしても、直球で書いたとしても、所詮はこういう話題の本質は、僕にとってはこれしかないと思っている。ストレートに書くと、僕は、空虚感からくる苦しみに縛り上げられ、留まるところを知らない罰を受けた。

 それは何か、後天的には変えることのできない、性的な非対称性から来るのかもしれなかった。恋愛市場において需要と供給のバランスが完全に崩壊してしまっていることだとか、セックスに関する経験の有無がある人とそうでない人とで偏っている事だとか、、因みにフランスの作家ミシェル・ウェルベックはこれを「闘争領域」と呼ぶ。闘争領域の存在そのものに関する話については本題ではないので触れない。個人的には嫌な気持ちになり続けになるので本当に触れたくない。どの程度闘争領域のせいにしていいか、とかはジェンダー学の範疇なので。


僕が、相手が現状今そうしていたように、そういった不定形なやり方で性と向き合うことは不可能だった。実際には行動を起こしてもいない。問題なのは、それを僕が望んでいたのか?以前までは望んではいなかった。以前までは。付き合う前の話だが、相手がどんな人生を歩んできたか全て教えてもらった。僕はその時、心を開いてくれた事が嬉しかったし、その内容について本心から思ったことを彼女には伝えていた。

それと同時に、自分にはその時まで、人生において何も無かったのだ、と自覚させられることになったのである。

だが、彼女の話を常識的に聞けば、その話の内容に上がっていることは、そんな事など起こらない方がマシだ、という気持ちになるはずの内容であった。本人はその記憶を思い出すのを嫌がっていた。

ただ、僕には、その瞬間少しだけ、何故、自分にはこれほどまでに何もなかったのか?と自問する感情が無いわけではなかった、ということを記録しておく。これはあくまで僕個人の異常性だけを告白するためであって彼女を傷つけたいわけではない。彼女に悪い感情を背負わせることは僕の望むところではない。

とにかく、その時の僕、時系列が飛んで、別れたあとの僕、それ自身の存在には、何もなかった。
 
 付き合っているときは初めての経験ばっかりで楽しかったし、その思い出を全て鮮明に思い出すことができる。相手にとっても自分は初めて心を許せる同年代の男で、楽しかったと思ってもらえていたという感覚もある。彼女はたまにそういうことを僕に伝えた。真相は知らないけど。

 ただ、それ以外の人生で僕は何もなさすぎた。どれほど向こうが自分の事を愛してくれていても、結局、僕は空虚への恐怖をとてもとても強烈に恐れていた。最初から、何処へも行けなかった。僕は震えていた。一人でいる時には全く気付かなかった事だった、付き合っていた時だけ震えは止まっていた。
 そしてそれは、関係が終わった時からまた動き出した。別れてから徐々に、強烈な劣等感に襲われた。動きたくても動けなかった。本来そういったことからくる劣等感であれば、一刻も早く外に出て何か事をなしたいという類いの衝動であるのかもしれない。

 しかし恐ろしくもそれは、全く逆のものだった。
 家から一歩も出られなくなり、天井から少しも目を離せなくなった。身体は動かすことができなくなった。そして醜くも、羨望だけが残された。不定形な性関係を結びたいという欲望が。今の彼女がしているようなことを自分もしたいという極めて漠然とした、しかし狂気的な羨望だった。ただ、身体は動かなかったので、結局何もすることはできなかった。
 もし出来ていたとしたら、しただろうか?
 それについては、本当に何も分からない。

 これが昨年の12月。未だに僕を取り巻く状況は何一つ変わっていない。でも、客観視することはできる。今も狂っていないとは言い切れないが、狂い切っていた頃を思いだせば大分進歩したなと思うしオトナになった。もう劣等感で何もできなくなるなんてことは起こらない。めちゃくちゃな欲望に支配されることもない。しかし今でも、空虚感とそれに伴う劣等感を恐れないことは、どうしても、出来ない。

 あのときの脳は、何処かに行ってしまった。
 いや、実は、元に戻っただけなのか?

 それでも、まあ人間は生きていけるし、どうにかこうにか生活を維持することだけは出来る。

 それ以上は、まあ、あとから全部付いてきてほしいという感想。希望的観測。
 というか、そもそも、人生とはそんなものでしかなかった気がする。知らないが。

 ということを言って、この話は終わりです。


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