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書けない
noteが書けない
書きたい内容が有るはずだが書けない。
でも、書きたい内容なんて本当はないのかもしれません。
僕は書かなくても生きていけるから。生活の中に書くことが組み込まれていない人間であったから。動画を撮るとか、noteを書くということは仕事をしたり単位のためのテスト勉強をしたりアルバイトをしたりすることとは違って、それが行われて居なくても生活というものは成立する。バイトをサボったら怒られる。しかし、noteを書くことをサボっても誰も怒らない。なぜ誰も怒らないのだろうか?文章を書かなかったことと、バイトに行かなかったこと、いったい何の差があるのだろうか?
世界が僕の前で均質化されていく。サカナクションのsakanactionが頭から流れて、朝の歌まで流れ終わると『スローモーション』が流れる。Spotifyという巨大なアルゴリズム、システムの前では、バンドの歩みや時代やメンバー変遷は全て均質化されていた。僕はサカナクションを聴きたいだけなのに、勝手にカネコアヤノを流さないでくれ。
サブカルチャーとメインカルチャーも均質化されていく。noteという巨大なシステムの前にはサブカルチャーもメインカルチャーも、三島由紀夫もさくらももこも、東大も高卒も均質化される。水が上から下へと流れるように、最高学府の人間たちは、メインストリームの文壇で足掻くのを辞めてしまい、享楽的に煙草をくみ、散文ではなく短歌を書き、その伝達手段は文章であったはずなのに、感情的なサムネイルや写真を立てて越に浸っている。文章なのに挿絵がなければ他人からの評価をも録にされない世界、サブカルチャーの担い手が東大でないといけないような権威主義、学歴主義とは似て非なる何かおぞましいシミュラクラに支配されてしまったサブカルチャー。これらはもう僕の寄るところではなくなってしまったかもしれない。最初から僕がサブカルチャーを担っていたなんていう大仰なことを言うわけでは無い。しかし、受け取り手のほうが明らかに、この狂った社会にやられてしまっていると感じる。まあこんな社会、狂っていない人の方が稀でありますよね。下手な焼き増しや能書きばかりが氾濫してしまっていて、僕はそれとは違うと自分に言い聞かせる。だけど、中核派という存在のスキの数やフォロワーの数がお前のやっていることは意味が無いことなのだと言い聞かせてきて、僕はともすれば彼らと同じような気分に陥ったのかもしれない。煙草をふかして、パソコンの光だけがついた7畳の家賃3万3千のアパートで膝を抱えながら苦しむ。何か狂気的なものが自分を、このままではいけない、早く書き出さなければいけない、と思わせる。一方ではしばらく前から僕のことを支配している不安(タンドスピロンで収まるような小さなものではある)が僕をヒーターの前に押し留めようとしていて、寝かし付けようとしていて、それはまるで雪山で襲ってくる眠気みたいだった。大切な人に割くことのできる愛情が削れる前に、この生活から脱却しなければいけない。そして、サブカルチャーに媚びてはいけない。