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ミスコンの話と何もやりたくない人の話

僕はまったくゲームをしないのだが他人のnoteや文章や動画やツイートにゲームをする旨の内容が流れてくるとウってなってしまう。「何かをやっている」ことで人と人はなかよくなれることができる。しかし、「アイツがやっている何かをやっていない」ことで親愛度がマイナスになることはない。

最も恐ろしいことには、「何もやっていない」ことでぼくは「何かをやっている」ことに匹敵する親近感を得てしまうことがわかった。「何もやっていない」ことを「やっている」奴をみるとニコニコで駆け寄っていってなにもやっていないんっだね!と話かけようとするが、後ろ手に隠していたゲームや楽器が明らかになると急に怖気づいてしまう。まるで銃口をつきつけられたようだ。




 ぼくの通っている大学では例年に引き続き今年もミス・ミスターコンテストが開催されている。とはいえ今年は少し違う点があるようで、ミスターコンに出場する人間はミスターコンだからと言って必ずしも魅力的な男性性を競う必要はないということである。どういうことかと言うと、男性的な魅力と言う一点だけで勝者が決まるのではなく、女性的、あるいは中性的な美しさを前面に出して勝負しても良いということである。ミスターコンの出場者は、目鼻立ちのくっきりした掘りの深い顔立ちや、がっしりとした上半身を用意する必要性は全くない。それどころか、メイクをして、スキンケアをして、フリルのついたワンピースを私服で着ているという状態でもコンテストの壇上に上がることができる。一例を挙げたが、どのような要素の探求がすなわち性別に特有的な魅力になるかという問いはここでは問題にしない。あくまでステレオタイプな例をあげただけである。まあそんなことはおいておいて、このミスターコンで非常に怖いと感じたのは、元来この大会のコンセプトに通底する外見主義的な価値観の押し付けだけではない。ことさらにぼくが怖いと感じているものは、一部出場者の、過剰なまでに貪欲な魅力要素の誇示である。近年Twitterでミスコン・ミスターコンの名前の入ったアカウントで行われるサブカルチャーへ発端を発するミームのにじり寄りがそこかしこで見られる。僕の大学のミスコンで起こっている例を挙げると、優れた容姿や能力を持った画像をバックに「この自らを形作ったレシピ」みたいに言って物の画像を上げまくるミームがあるが、こともあろうに当人が「中高塾なし現役で筑波大に合格した時の参考書レシピ」と言ってこのフォーマットをくだらない学歴に追随するちょっとしたマウントをとるために使っているといったものである。そもそも、塾通いをするかしないかなんて個人の自由でしかないのだし、そこに社会通念上の優劣はありません。そんな内容を、ルッキズムも助長しかねない攻撃的な外面の優位性の誇示という面を含んでいるフォーマットに乗せて流すなんて、なんかグロいものを感じてしまっている。まあミスコンにでるような奴だからそういうマウンティングが好きなのかもしれない。外面の評価と言う一つの基準を失った今、新たになにか価値尺度を見つけて他人より優位に立ちたいと考えているのだろうか。いずれにせよ、ぼくのいいたいことは「ミスコンなんてやるな!」という事だけである。

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