学校がだめ=私

私は、学校がだめだ。

小学生になって、私の学校生活は始まった。
それ以来、夏休みどころか、毎週の土曜日が待ち遠しかった。土曜日は朝ゆっくり起きて、習い事に通う以外は基本的に家で好きなことができる。遊びたければ誰かを誘えばいいし、祖父母の家に行ってもいい。選択肢があって、その選択肢を把握する心のゆとりを持てる心地よさが生まれる。

でも、土曜日が近づく木曜日や金曜日あたりから、土曜日が終わるときのことを考えた。土曜日が終われば、日曜日が来る。日曜日は休みだけど、学校が始まる月曜日を、そこから始まる長い一週間を考えなければならない。

夏休みも同じことだ。

夏休みが近づく6月下旬や7月に入ったころになると、夏休みの終わりを迎える自分を想像する。
少しでもその瞬間の辛さを軽くしたかったから。想定していれば、”「休みの終わり」を迎える自分”の辛さは想定内のことで、少しでもダメージを軽減出来る気がした。

「そんなことをして何の意味になるのか」という人もいるだろうが、少しでも負担を軽く出来るなら何でもしたかった。

小学1年生、朝は毎日家の前で泣いていた。学校がこわくて泣いていたけど、同時にそんな自分が恥ずかしかった。失敗も何度もして、小学校でのことは、人から見れば「黒歴史」なのだろうと思う。

それからずっと学校がだめで、高校2年生は保健室登校だった。
転校しても、学校がだめなことには変わりはなかった。

なぜ、学校がだめなのか、こわいのかと聞かれても、今の私にはっきりと正確に言える答えはまだない。少しずつ振り替えって考えて、こうではないかと考えても、なんだかしっくりこない。私はいじめられているわけではなかった。部活もしていた。生徒会を友達と運営していたこともある。
(親は、こういう、ある意味真ん中を歩いているような私が「学校に行きたくない」「学校が嫌い」「学校が怖い」とはっきり言い出したことに戸惑いを隠せなかったらしい。)

でも、きっと、「はっきり理由はわからないけど学校に行きたくない」という子はいると思う。

「学校に行きたくない」とか「学校が嫌い」とか、中々すぐには受け入れられない。まして、「私は学校というものがだめだ」など、流されてもおかしくないよなあと自分でも思う。頑張って説明しようとしても理由がわからないのだから、上手く説明ができない。私は、親以外には「理由が自分でもはっきりわからなくて」ということ自体を言えるようになっても、親の前になるとそれさえ言えなかった。声がつまって出なかった。すると余計に、向こうは理由を聞いてくるし、はっきり言ってくれとなる。
言ってもストレス、言わなくてもストレス状態だ。

私は、学校がだめだ。

でも、それが自分なのだとも思う。この先どうしていけばいいのかはよくわからないし、同じように今、暗い海の底にいる人たちに「こうすればいいよ」というような完璧な答えを提案することもできない。

ただ、現状での、これだけは忘れたくないということは、過去の自分を抱えるということだ。

家や学校で泣いたことも、失敗したことも。人から「黒歴史」と言われるようなことでも、自分に都合のいいように改竄されているのかもしれないことも。
そのとき必死になっていた自分の先に今の自分がいる気がする。

だから、無理に押し付ける気はないけれど、すぐにはできないけれど、自分を認めてあげていい。毎日、じゅうぶん戦っている。

今も完璧にそうできているかといえばそうではない。けれど、自分のどこかに置いておきたい。

あのときも、今も、毎日、じゅうぶん戦っている。

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