【2つめのPOV】シリーズ 第2回 「手」Part.2(No.0156)
パターンB〈ラウディのサングラス〉
[Remove sunglasses]
今年2020年の2月頃に、マスクやティッシュが不足して世の中が混乱することを一体世間の誰が想像しただろうか?
しかし僅かその一ヶ月もしないうちにマスクが不足と報道され、すぐにティッシュやトイレットペーパーまで連鎖して市場から姿を消し、ヤクザたちが買い占めネットなどを介して法外な値段で売り捌くようになってしまった。
これを書いている現在でも、かつてほどマスクは市場に出ておらず、報道を鵜呑みにする人からしたら全く意味の解らない状況になっている。
本当に僅かな期間で誰も彼もがマスクをして生活をしている。そしてこれを何にも疑問に持たない。
効果は?意味は?メリットは?デメリットは?
悲しいほど誰も何にも考えず、周りがしているから自分もする、してないほうがオカシイ、となってしまっている。
こうして、はるか昔からずっと言われてきたことであるが、「ひょっとしたら、世の中の大人たちはタダの馬鹿なんじゃないのか?」という疑問に遂に答えが出てしまったという訳だ。
そしてテレビ局やマスコミは嘘ばかりを流すプロパガンダ機関だということも完全に判明してしまった。
本当に、世の大人たちは、誰一人として何も考えていないのだった。
これは個々人があまりにも無能である、といった能力の問題以上のものが原因として含まれているのではないかと思う。
それはつまり、個人が考えたり発言したり行動したりすること事態が「罪」「悪」というカルト宗教の価値観が蔓延され、テレビマスコミ、有名人や流行り、大企業やCM、政府、政治家、自民党、公明党、電通などが「許可」し先導しない限りは動いてはいけないと、完全に飼いならされてしまっている世の中の「風潮」が原因であると考えられる。
これを長年に渡り、あらゆる状況で徹底的に作り出す活動が行われ続けたのだ。
だから、何の効果もないマスクを有難がり、していない者を人間扱いせず差別し、迫害するのだ。
そして何よりも、このマスクの原因となったウイルス騒動自体が大嘘であることも、少し考えて調べればすぐに解るのに、大の大人が誰一人として調べず、始終片手に持っているそのスマホは飽きもせずにゲームや動画に費やされる。
現在は復活したと思われるティッシュ配りも、少し前にやっていたら一体どれほどの人が殺到し、バイトのノルマが捌けたことか。
おそらく今はまた鬱陶しく扱われているのだろうと思う。
昔から相も変わらずザラついた安い紙の入った宣伝付きのポケットティッシュなんて、欲しがるものはオバちゃん以外まず居ないので、日雇いのバイトの人達は大変苦労して捌いていた。
しかしそれが、嘘を垂れ流すことで、何も考える事が出来ない世の大人たちがあっという間に欲しがって暴れたり奪い合ったり高値を払ったりするようになるのだ。
ちょっと前までタダでも嫌がられたのに、一瞬にして需要が生まれるのだ。
現在のウイルス騒動が世界的には嘘である事がもうバレており、中国発のウイルス騒動だけあってか、アジアエリアでは未だに報道も膨大な規制を掛け嘘ばかりを垂れ流しているが、その他のエリアではかなり対抗する報道も盛んに行われている。
それらの情報だって、ちょいとグーグルでもTwitterでもユーチューブでもダックダックゴーでも検索すればすぐに出てくるのだが、それをやらないし日々の報道もそんなものはこの世に存在しないかのように振る舞い続けている。
要するに初めからそのプランがあって、その台本に沿って進んでいるわけだ。
しかし何でも反対勢力もいるわけだから、反対している国や組織が色々とやって対抗しているということで、そう考えるとこの国はハッキリと「大賛成」の立場をとってウイルス以上に「拡散」に精を出しているのである。
嘘によって簡単に誘導されるように「教育」された人達が、自分の心や身体に相談することなど一切せず、ましては家族や友人たちと話し合い相談し合う事も一切せず、一度として会ったことも無ければ会うことすら絶対にないテレビに出てくるオッサンやオバサン達の一方的な命令には瞬時に従うのである。
そして不要なものを必要と感じさせられ買い求める。
嫌いなものを好きだと思い込まされて願い求める。
役に立たないものを信頼させられて奪い合う。
この惨状には、もはや味方や仲間の考えが微塵も無いことがわかる。
日々、家族だ仲間だ友人だ恋人だ信頼だ絆だ永遠だと宣っていても、たかがゴムが付いた不織布の切れっ端1枚でああだこうだと言い争うのだ。
彼らが感じている繋がりというのは、知性があって成立するものだから、自分でものを考えられず酒やテレビに溺れている人達にはそもそも維持も手にする事も難しいのだ。
彼らもそれを薄々解っているからこそ過剰に繋がりを意識するのだろう。
本当に欲しいと望んでいる事にはキチンと時間を使ったり努力をしたりもせず、全く欲しくも好きでも無いものには血眼になって大金も使い、苦しい思いをして犠牲を払ってまでも手にしようと足掻く。
一体何がしたいのか?
本当はどうありたいのか?
何が欲しいのか?
これらの答えがある場所は自分達の内側にしかないが、その答えが「求めるものがある場所」は、何処にあるかはそれぞれだろう。
求める気持ちが個人個人の内側にあるのだから、それと繋がる答えはそれぞれ外に存在する。
これを探る事は大切で時間も労力も要ることだが、テレビも教師も親も友人もその事自体を教えてはくれないし、当然答えも知らないのだ。
それを認識し探すことが出来るのはその人だけだから。
つづく