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巷で流行る『推しは、推せる時に推せ』という言葉が嫌いだ。


※このnoteは一部攻撃的な論調を含みます※




「推しは、推せる時に推せ」



アイドルのファンの中では、いつの間にか市民権を得た慣用句。皆様も「推し活」という言葉に付随するかのように、一度は見たり聞いたりした事があるだろう。

この言葉が私はどうしても好きになれない。というか、「大」が付くほど、この言葉が嫌いだ。この言葉を依代に日々を営む人間とは一定の距離をおきたくなるほどにはこの言葉を嫌悪し、警戒している。

そもそもこの言葉を心地いい使い方をしている例を私は一度として見たことがない。いつか用法用量が守られて処方された場面に遭遇してみたいものだ。

この言葉は「煽り」や「慰め」でしか使わない。「推せる時に推せ」という言葉の考案者が「上手いこと言ってやった」という''したり顔''が浮かび、その度に体が痒くなる。

とは言っても、この論調に共感を得るつもりもなく、書き終えても読み終えても、どうしようもない産物が産み落とされるだろう。ここまで市民権を得た言葉なら尚更、その川の流れに逆らう事に意味があるとは到底思えない。

少数派だと自覚したまま書き綴る声の大きい元声優アイドルオタクのただの独り言noteである。






この言葉はいつもなにかを「唆す」ために使われる。


購買意欲が一定に満たない時や無謀なスケジュールをその場のノリで強行する時に何度も目にするこの言葉。本来は脱法ドラック的な立ち位置はずなのに、どこにでも持ち歩けるフォーマルな言葉として扱われている昨今に未だ違和感を覚え続けている。

自己暗示だろうとしても言葉選びが浅はかすぎるのではないだろうか?

そんなもの稚拙な大学生による飲み会での、一気呑みコールみたいなものであり、その言葉をスローガンのように乱発してる人間を見ては、いつも鼻で笑っている。社訓のように振りかざすとするならば、それはただのブラック企業と言って差し支えないだろう。

「他人に強要するな。」

「自分にだけ念じておいてくれよ。」

「いつだってファンは''終わり''を見据えて、コンテンツの前に立ってんだろうがよ」


右足を出して左足出すと歩けるレベルの話。
日本語を覚えたて子供が言うならともかく、大人たちが寄ってたかって…本当にくだらない。

「その気」じゃないなら尚更この言葉は軽薄だろうし、品のないエゴワード。

改めて書いていて思うが、こんなひねくれた捉え方をしてるのはむしろ私くらいだろうと思いながらこの文章を今も綴っている。




というものの、私は自分の尺度ではあるが、身分の中では全力で応援しているつもりだ。自惚れではなく、自分の日々ファンとしての立ち回りを見ていたら、現状に満足している。



でもこれもきっと、仮初の幻想で、日に日に「あの時あの言葉をかけていれば」「あの時あの選択をしていれば」と脳内でネガティブなフラッシュバックや後悔が生まれる。


ここで、俗に言う''オタク''が嫌う、自分語り…自己紹介をしていこう。
疫病に蝕まれた2020年という生きづらい時代に一度目を伏せ、それより前の」当たり前が当たり前だった時代」にフォーカスする。



学生のご身分という都合上、海外イベントには行かなかったものの、国内の遠い場所で言うと、ライブの翌日でも北海道にも行って、その更に翌日のアイドルフェスに行ったりもした。
他のアイドルなんてほとんど知らないのにその声優アイドルを、そのグループに所属するただ一人を見に行った。

別にそれを誇るわけでもないし、誇れるものですらない、行きたいから行った。行けたから行った。スタンプラリーみたいなものだ。

しかしこれがファンとしての厚み…巷で言われるマウントバトルになるとするならば徹底的にこの功績を誇示するのだろう。どこもかしこも結局は自己満足と自己顕示欲の世界だ。

この世の景色や作品に触れると、「あの人が見たらどう思うだろう」とか「あの頃のあの事象と似ているな」なんて何気ない日々を重ねてしまう。自分でも驚くほど、推しが人生を占める割合が増えている。棲みついている。

私よりもずっと歴の長いファンの友人が一度「1日の8割くらい▒▒さんのこと考えてる」とか冗談交じりで言っていたけど、あながち嘘じゃないくらい私もどんな時も話の近くや裏側には、良くも悪くも彼女の影が付きまとう。一種の呪いの類だろう。

でもそんな日々が最高に愛おしい。
私の人生経験が乏しいのかもしれないが、こんなにも幸せな日々が
続いていいのかと思うほどの日々の連続。金や大人の思惑の上にあった幸せだとしても今のこの状況が「生きていてもいい」実感を、人生への肯定をくれる。趣味としては想定以上に高くついているが…。

しかし、いつかこの泡も弾ける。

もちろんそんなことは考えたくない。その救いようのない真っ暗な絶望に目を逸らし生きている。その迫る未来の現実に目を背ける作法など何処で学んだのか。その行動は賢い選択なのか、はたまた愚かな決断というのか。


でもいつか、いつか必ずその日が来る。

「推しは推せる時に推せ」

今ここまで全身全霊をかけて応援して、毎日推しを思う日々があろうとも、お別れの日の私は必ず莫大な後悔を抱えているだろう。

ここまで登り詰めても…最高に幸せな日々を実感していても、後悔が勝り、過去の幸せすらも否定して破り捨ててしまうかもしれない。
「推せる時に推せ」とほざく人間は本当にその''終わり''を日々見据えて、その言葉を放っているのだろうか?当事者こそ、その「推す」という行為にどれだけ人生を掛けていたのだろうか?

何故順風満帆に等身大で応援している最中に、わざわざエンタメ業界…ひいてはコンテンツで禁忌とされている「終わり」を見据えて話すのか。

更にこれは完全な主観ではあるが、元来ドルオタや身を滅ぼすほどの推し活なんて…賢い人間が陶酔する趣味ではない。それなら「ファンとして生き続けるのなら、馬鹿みたいにかつ無我夢中に今を真剣に見ていれば。」と私は思ってしまう。そんな言葉に惑わされるくらいなら辞書でも引いて自分の感情に寄り添ってくれる熟語でも探しに出掛けてみてはいいがだろうか?



誰だってそうだろう、今は今しかない。
何故、終焉を軸に自分の士気を上げるのか。

全額賭けようと、全日掛けようと…応援に上限などないし、その言葉の一つで無際限にリミッターが外れてしまう。

何故自分を納得させるのに、他人を説得するのに、わざわざネガティブな煽るような因子を含ませるのか。

Instagramに「人生一度きり!」と書いている人間を鼻で笑う人種が啓蒙のように「推せる時に推せ!」なんてエゴでしかない。なにを諭そうとしてるのだろうか?


だがぶっちゃけここまで書いて、それをベラベラと口にする当人たちは気軽にその言葉を使っているだろう。だからこそ、それが私からしたら不愉快極まりない。同じ人種だとは思われたくないと思うほど、その言葉を嫌悪している。

言葉にはきっと重みがある。そんな言葉はきっと励ましじゃなく脅しでしかない。

特典会で言葉の大切さを学んだ人間たちとは思えないくらいの雑な言葉選びの応酬。


私は日々生きる中でSNSを使用しながら、

「日本語はこんなにもバリエーションが豊かなのに何故その言葉をチョイスするのか?」という事案に度々遭遇する。



私も本を読まないゆえに語彙は最小限のものだし、このnoteですら重複表現があるはずだし、文才もある人間だとは到底思っていないが、
表現する際は適切な言葉を使おうとする意思を発揮することを惜しまない。全身全霊賭けて、ひとつの作品を作り上げることに向き合って行こうと果敢に挑む。

それこそ推しへのリプライなんて、誤解されないようにご丁寧に(    )で注釈を入れたりするほど、言葉は丁寧に扱っていかないと、どんどんお互いのギアにズレが生じ、関係性が劈く悲鳴をあげるだろう。

私は読み手次第でどれだけ悪くも取れてしまうのが恐ろしいから、(Twitterなら)その140字に魂を削り書き殴る。「こうした方がニュアンスが近い」とか、「この文章の方が傷つく人が減るんじゃないか?」とか。

「Twitterなんて所詮呟きなんだからもっと肩の力を抜け」と笑う人間もいるだろう.
なにも「腹減った」とか「バイトおわった〜」等の呟きらしい呟きにすら文句をつけてる訳ではない。呟くとは本来そういうもの。本なんて年間に1冊読んだら「多い」のtearに匹敵する私はそもそも文筆に偉そうに語れる立場にいないことを自覚している。

それと同じように、そんな恐れ多さや、自覚が足りない者が多用し続けた影響で尚更「推せる時に推せ」という言葉腐って行った。


本当に君の応援の活力は「推せる時に推せ」という浅はかな言葉に縋ることでいいのか?



上記の文章を占める一言を述べるとするならここまで書いた3000字は完全に無に帰すが、元を正せば「どの言葉を使おうと当人の自由」である。


そして金銭的に負け組の筆者からすれば、「相手を不快にさせない状況下」で金銭をつぎ込める人間に文句を言うつもりは無い。
尊敬しているし、こんな文字列はゴミ箱に丸めて捨ててもらって構わない。

だからと言ってなにをしてもいい訳でもないから欲望と金のバランスは難しい。

だからこそ大金をつぎ込んでも、日々エゴと立ち向かい、自分を律するポリシーを掲げて「推し」を思いやり、自我を生かさず殺さず保ち続ける「彼ら」には、声には出せずとも心の底から尊敬しているし、共にこの時代を生き抜けたことが限りない幸せである。これからの未来も「共に前を向いて行こう」とか「喰らいついていこう」と信じられる。



だからこそ私は、

「推せる時に推せ」という終わりを想定し、
エゴと扇情に塗れたその言葉が嫌いだ。