「人間とは何か」
高橋博之氏のツイッター
イタリアの哲学者アガンベンの言葉には驚いた。
これは急所を言い当てていると感じる。
こちらの記事がわかりやすいと思い、引用する。
2020年2月に新聞で発表したもの
別の機会(2020年4月)に書いた全文はこちらから
アガンベンの2つの懸念は、現代人がもう一度考え直す必要があるものと感じる。
1 死生観を問う
一つ目
一つは、多くの人々が葬儀もなく埋葬されている現状についてである。もちろん遺体から新たな感染が生じる可能性は理解できる。だが、我々が死者への敬意を何のためらいもなく放棄しているとしたら、社会はどうなってしまうだろうか?生存以外のいかなる価値をも認めない社会とはいったい何なのか?
死生観を問いかけている。
生命さえ生きていれば、あらゆるものを犠牲にしてもいいのか?と。
具体的にはこちらがわかりやすい
ここでわたしは、人間の尊厳を擁護する任を負っていたはずのひとびとに帰されるべき、さらに重い責任に言及せざるをえない。まず第一のものは教会である。彼らは、現代における正真正銘の宗教となった科学の婢に身をやつし、自身にとって最も本質的な諸原則を全面的に放棄した。まさしくフランチェスコという名の教皇を戴く教会は、アッシジのフランチェスコがハンセン病者に抱擁したことを忘れてしまったのだ。慈悲のひとつは病人を見舞うことであることも忘れ、さらには殉教者たちが示した、信仰よりもむしろ生命を犠牲にする覚悟をすること、自らの隣人を見捨てることは信仰を捨てるに等しいということをも忘れている。
上の引用文を簡単に私なりに書いてみよう。
その昔、あるキリスト教者は、ハンセン病という当時は接したら感染すると思い込まれた病の人と抱擁してきた。そのことを忘れてしまったのかと嘆いている。つまり、生命を投げ打つ覚悟を持った信仰者はもはやいないのだと。
19世紀まではキリスト教圏で宗教者は医者に一切かからなかったと聞く。病も死も神の思し召しだ、と。だからこそ、尊敬もされ、権威もあった。
宗教者は、それだけの権威を科学に渡してしまった。科学が万能になった今、生こそ全てのアガンベンのいう「むき出しの生」が何より大切になってしまった。「ただいきているだけの状態」と私は解釈している。
生きていさえすればそれでいいのか?
命より大切なものはないのか?
残念ながら、現代人は生きていればいい。命より大切なものはなくなってしまった。
特に日本人哲学者には主張して欲しい。日本には武士道があったことを。
命より名を惜しむ生き方があったことを。
これは死を見失ったことで、生も見失っているものと考える。
昔の武士なら、戦で逃げたとなったら恥ずかしくて生きていられなかった。むしろ、どう死ぬかを常に問うていたと言える。今や、何もなさずとも生きる権利を叫ぶ人もいる。恥がなくなったとも言える。
しかし、生が充実するには、死を意識するかが大切だ。
だからこそ、辞世の句が詠まれた。
私の尊敬する松尾芭蕉の辞世の句は
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る
私もそれにならって
炭に病んで 夢は枯野を かけ廻る
書き初めもしたところだ。
いつ死んでもいい!と思える生き方をしたい。
まだ、いつ死んでもいいと言い切れないが、いずれその日は来ると信じる。
死生観を
つまりは
生の反対の死を意識することを
問われている。
2 自由とは何か
二つ目
もう一つは移動の自由の制限についてである。現在行われている「緊急事態」を理由とした移動の自由の制限は、戦時でも誰も思いつかなかったものだとアガンベンは言う。ここには、移動の自由が単に数ある自由のうちの一つではなく、近代が権利として確立してきた様々な自由──思想の自由等々──の根源にある自由だという考えがある。
ここでは前出の死生観とは趣きが異なる。それはヨーロッパでは自由は勝ち取った権利だからだ。続きを引用する。
この点でアガンベンの主張はドイツの首相アンゲラ・メルケルのスピーチと共鳴していた。東独出身の彼女はこの自由がどれほどの苦労のもとに勝ち取られた権利であるかをよく知っていた。だから、その制限は決して軽々しく決められてはならないと釘を刺すのを忘れなかった。
メルケルは政治家であるから、その上で移動の自由の制限を要請した。哲学者であるアガンベンは、人々が制限を易々と受け入れている現状に警鐘を鳴らすべく果敢に発言した。
自由は欧州では苦労して勝ち取った自由をそう易々と受け入れていいのかと問うている。
これはおそらく、日本人と発想が異なる。日本の近世までは比較的自由があったように推察するからだ。日本人はお上の言うことには易々と従う傾向にある。しかしながら、飲食店によっては営業を続けると宣言するところも出てきた。
私が考えていたことを書いてくれた感が強い。
大きくは、対策を講じれば決して飲食店が危険だと言えないから。
国の対応への批判もにじみ出ている。
その通りなのだ。
前回noteを参照頂きたい。
飛沫感染なので、飛沫から感染しないようにさえすればいい。
それなのに、
移動をしてはいけない。
人と会ってはいけない。
おかしいのだ。
その背景は、
移動したら、
人にあったら、
あなたは感染予防をきちんとできないですよね?
って言ってるようなものなんだ。
バカにされてるだけだ!
とも言えるのかもしれない。
国もそこまで国民を信じきれないのかもしれない。だから、感染者が増えているのも事実だから。
見方を変えれば、
日本国憲法としては、自由と公共の福祉との折り合いなのかもしれない。
そこは国としても仕組みを作る必要もあるが、国民側でも考えるべきだと思う。
と言うのも、しっかり感染予防をしている人が大多数なのだから。
99パーセントと言っていいかもしれない。
残り1パーセントが残念ながら、きちんと対応できていないだけなんだ。
それでも問いたいのは、自由を享受する資格あるか?と。
ここは若い人ほど自己肯定感が低い現状が背景にあるように感じている。
つまり、自由を享受するための土台としての自己肯定感を各人が持つこと。
各人が自己肯定感が持てる社会づくりをすべきなのではなかろうか?
日本の高度経済成長時は、社会建設への意識が強かったと聞く。
しかし、現代日本は「何をしても仕方がない」無力感が支配している。
これは、支配者からすると都合がいい。
なぜなら、支配する側は反発する人がいないからだ。
こういう現実も認識すべきと思う。
自由を享受できるだけの人間でありたいと願う。
そして、そのための社会づくりに貢献したいとも願う。
その社会づくりに参加するきっかけも作っていきたいとも願う。
自由を獲得するための歴史はここでは詳述しない。
獲得された自由がもはや当たり前だと考えるのも早計なのだと指摘したい。
現代でも、
不断の努力で自由を得る自分づくり、社会づくりは続けなければいけない。
権利だから当たり前だよね
なんてありえないのだ。
3 法治国家とは?
4月のアガンベンの記事を引用する。
自身の役目を怠ったもうひとつの集団は法学者だ。緊急法令が無分別に用いられ、それにより事実上行政権が立法権に取って代わり、民主主義を規定する三権分立の原則が廃棄される、という事態に、しばらく前からわたしたちは慣れてしまっている。だが、今回の場合は、あらゆる限界が飛び越されており、首相と市民保護局長官の言葉が——まるで「総統」のそれのごとく——すぐさま法としての価値を持つかのような印象を受ける。そして緊急法令の有効期間が切れたのち、どのようにすれば——予告されているような——自由の制限の維持が可能なのかは不明である。法的な手段によってか、あるいは永続的な例外状態によってなのか。憲法が尊重されているかを検証するのは法学者の務めであるわけだが、彼らは黙して語らない。「なぜ法学者は自身の事柄に沈黙するのか(Quare silete iuristae in munere vestro ?)」というわけだ。
法学者が国の方針に対して意見を言った記事を見たことがない。調べてないのも事実だが、アガンベンやハラリのようなモノ言う法学者がいないのも現実だろう。
法治国家とは何なのだろうか?
シンプルにこんな問いが浮かんだ。
上の通り、三権分立はあるが緊急時は行政権が立法権に取って代わられることを
当り前に受け止めていないだろうか?
おそらく世界中の法学者が沈黙を守っている。
だとしたら、法治国家はコロナショックのような事態に対処できないことを認めることになることをわかっているのだろうか?
私自身は人間の作ったものは常に不完全だと思っている。
一方で、自然が作る調和は完全だとも思う。
その乖離を埋め続けた歴史こそが人間の英知だった。それが今回はどこで生まれるのだろうか?
残念ながら、法学者にはその任は重すぎたことは証明された形になった。
悔しくないのか?と法学者には言いたい。
4 新世界は誰によって作られるのか?
新世界と書き直した。
当初は
新世界秩序 New World Order
なんて書くと陰謀論者が喜ぶ。奇をてらって書いたのも正直なところ。
一部の人間がもし新世界を作るとしたら、あなたは「はいそうですか」と受け入れられるだろうか?
この問いに「はい」「YES」と言う方がいてもいいし、そのことも私は受け入れたい。段階としては必要かと私見では感じる。
でも、NOと言ってもいいんだ。
NOというからには代案を出すべきで、少なからず意見を表明すべきだ。
ことわざに
長いものには巻かれろ
というのがある。
これは時代によって考え方が分かれるはずだ。
つまり、昭和・平成まではそれで良かったと思う。
平成では損する人も多かったかもしれない。
令和でも損かもしれない。
でも、損してもいいんじゃないの?
1章の死生観につながるけど、何のために生きて何のために死ぬか だけの話なのだから。
つまり、
現代は損得勘定だけで生きている人が多い。
私がそうだったから余計にそう思う。
でも、
自分の人生はこれこれが幸せだって心底思えたら
それで幸せなのだ。
損得勘定は後で振り返って出てくる些末な話のはずだ。
その意味での死生観、辞世の句なのだ。
脱世間、脱人間について書いたことがある。
自分が何を選択するかは自由だ。
であるならば、
アガンベンのいう「剥き出しの生」
執行草舟氏のいう「家畜」「奴隷」
そんな生き方を手放す人が増えることを望む。
とはいえ、強制もできないので、まず一人進もう。
その先に新世界があるに違いない。
そう。
新世界は一人一人の手にあるのであって、一部の人のものではない。
最後に
ローリングストーンズは「悪魔は哀れむ歌」の中でこんな歌詞が出てくる。
I shouted out,
“Who killed the Kennedys?”
When after all
It was you and me
(who who, who who)
ケネディを殺したのは誰か?との問いに
「俺とお前だ!」
と答えるわけだ。
この世界を作るのも俺とお前だ!
It was you and me
ありがとうございました。
ご縁に感謝です。サポート頂いたら、今後の学習投資に使わせて頂きます。