短編小説『お婆さんの小さなお店』
無愛想なお婆さん
地方の寂れた駅前の通り。歩いている人も少ない。
その通りの角に古びた小さなお店がある。店の看板のペンキの文字は雨や風でかすれて読めない。
汚れたショーウインドウ。長い間にたまった埃もそのままだ。色のあせたブリキの戦車や戦闘機、セルロイドの人形などが無造作に並んでいる。
曇りガラスのドアを開けて入った店の奥の壁には、古い額縁の中に一枚の絵が飾ってある。小さな子供がクレヨンで描いたような絵。誰だか女の人を描いたように見える。
絵の下の背もたれのある木の椅子に、銀色の丸い眼鏡をかけたお婆さんが座っている。もう八十歳は過ぎている。油っけのない肌。ひたいや目尻の深いシワ。真っ白な髪。お婆さんは、ぼんやりと入り口を見つめている。
肥満ぎみのお婆さんの三段に膨らんだお腹。洗いざらしの薄茶色のワンピース。歳をとっての肥満は、たいていの場合、膝や腰に痛みをかかえているものだが、このお婆さんも足腰が弱っているらしく、椅子の横には木の杖が立てかけてある。
太いふくらはぎの下の足は、くすんだ黒い靴を窮屈そうに履いている。お婆さん本人は、おめかししているつもりらしいが、裕福ではない生活感は隠せない。
一日に数人はショーウインドウを覗いて入ってくる客もある。お婆さんは客をちらっと見ただけで、ブスッと何も言わずに座ったままでいる。
ほとんどの客は、無愛想な女主人との無言の気まずさに耐えきれず、品物をろくに見ずに出ていく。たまに何か言葉を見つけて話しかける客もあるが、お婆さんが返事をしないので、やはり店に長居することはない。
お婆さんの店に訪れた青年
ある日、二十を過ぎたばかりの青年がこの店に訪れた。黒いビニールのビジネスカバンを持った青年はショーウインドウをしばらく眺めた後、少し緊張しながら店のドアを開けた。
ドアが「チリリン」と鳴る。開いたドアから入ってきた青年の顔を見たお婆さんの瞳が一瞬動いた。
「こんにちは。お店の人ですか?」
青年のかしこまった挨拶には、言い慣れない幼さがあった。お婆さんは、それには答えなかったが、座ったまま身を乗り出した。丸い眼鏡の端を指でつまんで青年の顔を良く見ようとした。
「お婆さんは、お店の人ですよね?」
そう言うと、青年はカバンを両手で前に下げて立ったまま、店の中を見渡した。青年の顔をじっと見ていたお婆さんは初めて口を開いた。
「芳雄、芳雄なのかい?」
横を向いていた青年は、突然のお婆さんの言葉に振り向いた。
「はい?」
「芳雄だね?」
そう言うと、お婆さんは横の杖をつかんで立ち上がろうとしたが、膝が悪いのと身体が重いために直ぐに立てなかった。それを見ていた青年は、お婆さんに近づいて無理に立たないように手で制した。
座り直したお婆さんは、杖を身体の前についたまま青年の顔を見上げた。
「芳雄、母親の顔を忘れたのかい?お母さんだよ」
青年は思った。どうやらこのお婆さんは認知症か何か、ボケているのだろうと。自分のことを息子と間違えているらしい。でも、そんな状態で店番をしているのもおかしいとも思った。
「お母さん?」
青年のその言葉を聞くと、お婆さんは目を輝かせた。
「芳雄、よく帰って来てくれたね。よく生きて帰ってくれたよ」
やはりお婆さんはボケているんだろうと青年は思った。そうなると、どうしたものかと青年は考えた。青年は老人を騙すつもりで訪れたからだ。ただ、この青年は本当の悪人ではなかったから、ボケた老人を騙すことをためらった。
青年は親しい友人に誘われてマルチ商法に騙されていた。借金を抱えた青年は、友人、知人を勧誘することができず、地方の無知な老人なら勧誘できるだろうとこの街にやってきた。
しかし、青年にはまだ良心が少しだけ残っていた。直ぐに出ていこうと思ったが、お婆さんの次の言葉できっかけを逃した。
「この店は芳雄のものだよ。お母さんが守ってきたんだよ」
青年は思った。お婆さんは自分がまだ若い頃の母親のつもりでいるらしいと。青年は、もう少し話をしてから帰ろうと思った。
「この店は何の店なの?」
青年は店の中を見回してお婆さんに訊いた。
「芳雄の好きだったおもちゃを並べて、帰ってくるのを待ってたんだよ」
「好きだったおもちゃなんだ、みんな」
「そうだよ、覚えているだろ?お前はあの戦車が一番好きだったじゃないか、ほれ、あそこの」
と、お婆さんはショーウインドウのブリキの戦車を指差した。青年は振り返って、ショーウインドウの内側のガラスを開けて戦車を手に取った。埃をかぶった戦車は骨董品に違いなかった。
「相当古い戦車だね」
「そうだよ、戦争が始まる前のものだからね」
「戦争?」
「お前が戦地にいる間、この戦車を神棚に飾って、お前の無事を毎日祈ったんだよ」
お婆さんは、顔をほころばせながら誇らしげに話している。どうやら、芳雄というお婆さんの息子は戦争に行ったらしい。ボケたお婆さんは時間を越えて息子のまぼろしを追いかけているようだ。
おそらく戦死した息子の面影を求めているのだろうと青年は思った。あの戦争からもう半世紀以上が経っていた。青年はお婆さんが哀れに思えた。
「芳雄、お前、この絵を覚えているかい?お前が小学校の一年生の時に描いて、一等賞を貰った絵だよ」
お婆さんは自分の頭の上の壁にかかっている絵を指差した。青年はその絵を見た。女の人が描かれているようだったが、決して上手いとは思えなかった。良く見ると絵の左上に、字を覚えたての子供の書いたような文字で、「ぼくのおかあさん」と書いてある。
青年は持っていたブリキの戦車を元に戻すと、置いていたカバンを手に持った。頭を少し下げてお婆さんに言った。
「お母さん、また来るよ。もっと立派な大人になって戻って来るよ」
そう言うと青年は店のドアを開けて外に飛び出した。
店の中から、「芳雄!芳雄!」と呼ぶ声が聞こえる。
「芳雄!芳雄!」
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次の日も、その次の日も、お婆さんは無愛想な顔をして、小さなお店の奥に座っている。