短編小説『死体リサイクル計画』
2054年、自給率0%
西暦2054年、日本は滅亡の危機に瀕(ひん)していた。
2020年代から、自国優先政策をとり始めた世界は、他国との安全保障よりも国内問題に追われていた。自由主義陣営のアメリカも欧州連合(ユーロ)も、台頭してきた右翼勢力に政権を奪われようとしていた。共産主義陣営のロシアと中国も、国内の反政府勢力との内戦に苦しんでいた。経済力の衰えた日本は世界から見放され、食料の自給率は0%に陥り、救いの手を差し伸べる国はなかった。
2020年代末期の日本は、世襲でしか国会議員になれないほど政権は独裁化していた。政権は大企業、富裕層優先政策をとり続け、貧富の差は完全に二極化していた。下級市民は政治に関心を失い、上級市民は益々富を独占して政権を支えた。
立法、司法、行政の三権分立は完全に本来の機能をなくして、全て政権の保管機能でしかなくなった。検察は政権の犯罪を無視し、官僚は政権の横暴を隠蔽し続けたのである。
2030年、千葉県の国防隊第三連隊と合同軍事演習をしていた沖縄の国防隊第七連隊の総勢1900名が国会を始めとした東京の主要公共施設や放送局を占拠してクーデターを起こした。直ちに発表されたクーデターの決起文の要旨は以下の通りであった。
● 多くの民衆が苦しんでいるのに、少数の特権階級が大部分の富を独占している。最早これ以上看過することはできない。
● 独裁化した政権は腐敗し、不平等を是正するどころか貧富の格差を助長している。
● 義憤にかられた国防隊の有志は、腐敗政権に代わって第二維新を決行する。
● 全国の義勇ある国防隊同志は、我々に連帯して直ちに決起せよ。
クーデターは当初多くの国民の歓喜に迎えられたが、呼びかけられた他の国防隊の賛同を得られず、孤立した結果鎮圧された。
クーデターの首謀者は粛清され、政権は国防隊の管理体制を強化し、益々権力を強めた。
下級市民の落胆は大きく、上級市民に隷属しなければ行きていけない存在であることを思い知った。
2050年1月、東南海を震源とする大地震が発生し、それに刺激されて全国的な地震が連続して起こった。この連発地震により各地の原発施設から放射能が漏れ出した。このため、国内の生産物を食料として供給できなくなった。
日本政府は直ちに近隣諸国に食料支援を求めたが、地震は環太平洋の広域で起こっていたため、各国も支援の余裕がなかった。
2054年7月、それまで節約しながらしのいできた備蓄食糧が底をついた。政府が苦慮して打ち出した政策は、『遺体再処理エネルギー活用計画』。通称『死体リサイクル計画』だった
死体の有効活用政策
政権が発表した『死体リサイクル計画』は、次のような驚くべきものであった。
● これまで火葬していた遺体を再利用(リサイクル)する。遺体から血液、脂肪、タンパク質、カルシウムなど、あらゆる有効成分を抽出して再利用する。
● これに伴い、全国の火葬場を遺体再処理工場に改修する。
● 同様に、全国の病院、養老施設、老人介護施設は、遺体の回収及び転送に協力する。
● 遺族には遺体の提供を義務化し、拒否することはできなくする。
● この計画の実施により、食料自給率は大幅に改善される見込みである。
この計画が発表されると、国内は騒然とし、賛否両論の議論が沸騰した。しかし、報道機関の政権に忖度(そんたく)した世論誘導により、次第に計画に賛成する大勢に変わっていった。
反対していた国民も、この計画の実行が進むにつれて、閉店されていたスーパーの店頭に食料品が並び始めると、文句を言う者もいなくなった。
『死体リサイクル計画』は食料問題だけでなく、輸血血液や燃料の不足していたエネルギー問題にも貢献した。そればかりではない、遺体成分の分析や再利用研究が進むにつれ、生活のあらゆる分野に活用されるようになった。
これによって、日本は食料危機を乗り越えただけでなく、自己完結型の工業立国という産業体制を確立し、低迷していた経済を立て直すことに成功した。
国民生活を見ると、遺体の冷凍管理、解体・成分抽出、製品加工等、新しい産業が生まれて雇用が創出されたことにより、賃金の上昇という恩恵を受けた。
日本は滅亡の危機を脱して、海外に頼らない自立国家としての道を歩み始めた。
しかし、『死体リサイクル計画』にも副作用が現れ始めるのに時間はかからなかった。
死体の高まる価値
国家的な危機からの脱出を急ぐあまり、政府は遺体リサイクルの促進政策として、遺体を提供した遺族に報奨金を出すことにした。
なぜこのような政策ができたのかというと、遺族の中には亡骸(なきがら)を遺体リサイクルに提供せずに、密かに先祖代々の墓地に土葬する者が出てきたためであった。特に地方においてはこの傾向が強かった。
報奨金はかなりの金額であったため、大きな効果が見られた。遺族に対する報奨金だけでなく、病院や養老施設、介護施設においても、遺体提供数の貢献度に応じて協力金が支給された。
これまで老人の存在は、社会から利用価値の低い存在と見られていたが、『死体リサイクル計画』の推進によって、価値を生み出す存在に変わった。
これは老人にとっては脅威的なことであった。寝たきりのような高齢な老人だけでなく、健康でまだ若々しい老人を見る目も変わったからである。
老人を見る周りの目が、「早く死ねばいいのに」と言っているように見えた。老人が健康であればあるほど、周りの目は冷たく厳しくなっていった。
生活に困った家庭では、老人を殺(あや)めたり、家族を思った老人が自ら命を断つような事件もニュースになったりした。
都会では老人の死亡率が上がり始め、ホームレスなどの姿も見られなくなった。都会で暮らす老人の中には、都会の外へ転出する者が現れ始めた。
この傾向を重く見た政府は、直ちに老人の都会からの転出を禁じる法律で対処した。老人にとって都会は非常に生きにくい場所になった。
老人の中には、法律を破って都会から逃げ出す者も出てきたのである。
森の老人組織
都会の老人たちは、周囲の冷たい視線に耐えられなくなった。一人欠け、二人欠け、次々に都会から老人たちが姿を消していった。
逃げ出した老人たちには向かう宛があった。
この頃には既に、逃げ出した老人たちの組織が作られていた。その組織の拠点は各地方の森の奥に設けられ、都会の老人たちとは口伝えで連絡を取り合っていた。インターネット上の連絡は、当局の追跡の恐れがあったためである。
都会から地方への老人の転出は監視の目が厳しかったが、地方から都会へ入るのは警戒されていなかった。脱出した老人組織からの工作員は容易に都会の老人に接触できた。
老人が都会から脱出する場合、工作員の老人に導かれて海岸に出る。そこで待ち構えていた仲間の小型漁船に乗って一旦海洋に出る。そのまま海岸に沿って廻って地方に運ばれる、というような手段がとられた。鉄道などの主要駅や、幹線道路には検問が設けられていた。
都会から地方へ向かおうとする老人を見かけた場合は、密告すると報奨金が出るという制度も作られていた。
船から降りた老人たちは、釣り人を装い、そのまま川沿いの道を伝って森に入って行った。組織の多くは海岸に近い森に作られていた。
組織といっても、その規模はまだ小さかった。本部は近畿地方の森の中に作られ、地方にはこの時点で四つの支部が出来ていた。
各組織は会長と呼ばれるリーダーを頂点に、副会長、会計、書紀、理事で構成され、理事の下にはいくつかの班が作られ、班長がまとめていた。この組織構成は、今では存在しない自治会という組織構成に倣っていた。老人たちには、懐かしいこの自治会組織がしっくりきた。
組織が森を選んだのは、身を隠し易いこと以外に、放射能の汚染度が平野部に比べて少なく回復も早かったからである。また森の中には新鮮な源泉の水もあり、川や湖では食料の魚を、森の奥では鹿や猪などを確保できた。主食の米や麦はほとんど作ることはできなかったが、芋やジャガイモを栽培して代用できた。
各班は当番制で農作業や狩猟を行い、各役職は数年置きに選挙によって選ばれた。また、作業とは別に、警備を担当する役割分担もあった。
最近では、組織の中に文化部が設けられ、レクレーションや新聞の発行も行われるようになった。忘れられていた正月やお盆だけでなく、ひな祭りや端午の節句、七夕、中秋などの季節行事も森の中で復活していった。
組織には組織歌というものがあり、創設当初から歌われているのは、『故郷』である。行事などの最後には必ず歌われていた。
ホームレス老人北村
もう長いこと、ホームレスとして東京の下町の公園を転々としてきた北村老人は、自分を見る周りの目が冷たく変わってきているのを感じていた。
以前なら、老体に汚い服装をしていても、店の残り物を分けてくれる飲み屋の主人などもいたものだ。『死体リサイクル計画』が始まってからというもの、下町の人々の態度は、北村老人をこの街に居づらくさせていた。
元々は地方の出である北村老人にも家族がいた。北村老人が家族を捨てたのか、あるいは捨てられたのかはわからないが、地方に家族を残したまま東京に住みついて三十年が過ぎた。
最初は北村老人も建設現場を中心に職を見つけて働いていたが、同郷の先輩に有り金全てを持ち逃げされてから、酒とギャンブルに溺れて運が傾いた。それからというもの、北村老人は働く意欲を失い、ホームレスに身を落としてきた。
「今日は冷えるな」
公園の片隅に作ったダンボールの棲家(すみか)に寝転びながら、十月の暮れの曇り空を見上げて北村老人はつぶやいた。
公園の横の道を、学校帰りの女子高生や新聞配達のバイクが通り過ぎる。夕食の買い物へ向かう主婦が、汚れたダンボールの家を横目に、冷たい視線を向けながら足早に歩いていく。
「この辺も住みづらくなってきたな」
北村老人は、慣れ親しんだこの街を去ろうか迷っていた。
「他に行く宛もないし」
北村老人は、そう言うとまたダンボールの中に体を丸くした。
ある日の夕方。北村老人は、コンビニの裏口のゴミ箱から拾ってきた、賞味期限切れの弁当を食べて眠っていた。突然体を包んだダンボールに硬いものが当たった。すると、同じような硬いものがいくつも飛んできた。石のようだった。
驚いた北村老人は、ダンボールの中から身を起こした。石は北村老人の右肩に当たった。
「うっ!」
北村老人は、右肩を左手で押さえた。石はなおも飛んできた。今度は北村老人の額に当たった。北村老人の額から血が流れだした。
「ホームレスなんか早く死ねばいいのに!」
「早くくたばって、みんなの役に立てよ!」
「早く死んじまえ!汚えんだよ!」
石を投げているのは、不良の中学生グループだった。
北村老人は額から流れ落ちる血を手で拭うと、慌ててダンボールの中から大事なものを詰めた紙袋を拾い上げて逃げ出した。
中学生のグループは追いかけてきた。逃げられないと思った北村老人は近くの商店に入った。店の奥にいたあごひげを伸ばした大柄な店主が、飛び込んできた北村老人に驚いた。
「すいません。悪い中学生に追いかけられて・・・」
北村老人の言葉で事情を理解した店主は、急いで店の外に出て確かめた。追ってきた中学生たちは、店主の顔を見ると引き返していった。店主はしばらく店の外に立っていたが、少年たちの姿が見えなくなると中に戻ってきた。
「もう、大丈夫だよ。この辺も近頃は悪いのが多いから」
「助かりました。ありがとうございました」
北村老人は頭を何度も下げて店を出ようとした。その時、店主は北村老人の汚れた服装を眺めて声をかけた。
「あんた、行くあてはあるのかい?」
北村老人は振り返った。
「え?」
「これから、どこか行くあてはあるの?」
「あ、いや、特には・・・」
店主は北村老人を奥のカウンターの前の椅子に座らせた。
「ここを出て、森の老人組織に行く気はないかい?」
「森の老人組織?」
その組織のことは今では誰でも知っている。集団の中に入るのが苦手な北村老人は、今までそこへ行ってみようと思ったことはなかった。
「ええ。もし、その気があったら、力になれるんだけど」
「わしは独りで勝手にやるのが好きなんで、そういうところは・・・」
「あ、独りが好きなら、組織から抜けたって構わないよ。とりあえず行ってみてから決めたらどうだろう?」
店主は熱心に森の老人組織行を勧めた。
「・・・」
北村老人は迷っていた。この街にいたら、また先程のような痛い目に会う可能性があった。
「都会ではもうあなたのような老人は生きにくくなってるでしょ?さっきみたいなこともあるし。他の街でも同じようなものだよ」
店主は、カウンターの横の小さな冷蔵庫から、温かいペットボトルのお茶を出して北村老人に渡した。
「それじゃ、お願いしようか」
「そうですよ。その方がいい。直ぐに組織と連絡を取るから、明日また来てくださいよ」
店主は笑顔で北村老人を店の外まで見送った。店を出た北村老人は振り返った。
「直ぐに組織から抜けてもいいんだよね?そのまま森で住みついても構わないよね?」
「ええ、大丈夫。心配しないで。大丈夫だから」
北村老人を見送った店主は店の中に戻ると、携帯電話をかけた。
「もしもし、私です。あ、どうも。今度一人送れます。ええ、そうです、そうです。じゃ、手配の方、よろしくお願いします。どうも」
電話を終えた店主は喜びを隠せなかった。
組織に老人を送ると、相当な手数料が入ることになっていたからである。
翌日、店主から詳しい説明を受けた北村老人は、三日後の深夜、東京湾から小型漁船に乗って東北の支部に連れて行かれた。
船が着いたのは東北のある港で、2010年代の初め、地震による津波で被害を受けた原子力発電所の近くであった。この原発は現在も廃炉作業が続けられていた。
この近くの森に老人組織の支部が設けられたのは、原発事故で周辺一帯に立ち入り禁止区域が多く、人目につきにくいことと、東京に比較的近くて豊かな自然に恵まれていたからである。
森の支部に到着した北村老人は、東京脱出組の老人たちで構成された班に組み入れられた。北村老人は店主の言っていたことを半信半疑ながら当てにして、とりあえず組織の指示に従うことにした。
ホームレス上がりの北村老人の、森での新しい生活が始まった。
政府の懐柔策
都会から老人が姿を消し始めると、政府も対策をとる必要が出てきた。当初はターミナル駅などでの警戒や、県境の幹線道路に検問所を設ける程度であったが、それだけでは対処しきれなくなった。
国民に脱出老人を密告させる制度まで導入した。しかし、老人の逃亡は後を絶たなかった。老人専門の病院や養老施設では、老人の不足によって廃業に追い込まれるところも現れた。
「政府は何をやってるんだ!これでは票が取れなくなってしまう」
医師会などの圧力団体に支えられている議員から、政府に対して厳しい意見が続いた。取り締まるだけでは老人の逃亡を防ぐことが出来ないと考えた政府は、老人に対する懐柔策に出ることにした。
老人病院や養老施設、介護施設等への利用料だけでなく、スポーツ施設、電車、バス、タクシーなども無料で利用できるようにした。更に、宅配弁当やレストランなどの食事券なども配布した。
しかし、これらの政策は、当の老人たちには不評だった。
「どうせわしらの質のいい体が欲しいんだろ。太らせてから食う気なんだ」
本当の自由を求める老人たちを、都会に押し止める効果は期待したほどではなかった。政府がどんな美味しい待遇をしても、最後には自分の体を切り刻まれると知っている老人たちには通用しなかった。
これらの優遇政策に、老人以外の人々から不満が出た。
「どうして老人ばかり優遇するんだ。我々だって楽な生活をしているわけじゃないんだ!」
老人にとって一番耐えられなかったのが、家族から聞かされる苦情だった。
「なんだ、こんなに良くしてもらっているのに。どうして出ていくんだ!」
老人たちには、彼らを取り巻く社会の目が、益々冷たく感じられるようになった。
子供の引き取り
一方、森で暮らし始めた老人たちも深刻な問題を抱えていた。
「われわれはいい。しかし、後の世代はどうするんだ?このままでは、いずれ森には誰も居なくなってしまう」
都会から逃れてくる老人は後を絶たなかった。しかし、少子高齢化の進んだ都会からの老人の数は、年を追う毎に減っていた。
「新しい老人たちを待つだけでなくて、この森の中でも新しい世代を作っていく必要があるんじゃないか?」
「それはどういうことだ?」
「つまり、こども達を、我々も育てる必要があるってことだよ」
「えつ?子どもを?」
「そうだ。この森に子供たちを連れて来て、育てるんだ」
都会では少子化が進んでいたが、同時に社会が複雑化して、人々の価値観も多様化していた。また、家族形態の核家族化は子育ての世代間継承を断絶させた。更に行き過ぎた消費経済は、物質への欲望をかきたて、生命の価値を軽視する傾向にあった。都会では子供に対するネグレクト(子育て放棄)や虐待が増加していた。
「それで、子供はどうやって連れてくるんだ?」
「親から見放された子供が、都会の養護施設には溢れている。この間も、工作員が見てきた施設で聞いた話しでは、虐待が原因で入ってくる子供が増えているそうだ。まったくひどい世の中になったもんだ」
「それじゃ、その養護施設から子供をもらってくるのか?簡単に渡してくれるのか、子供を?」
「それは心配ない。養護施設でも最近は国からの補助金が減って、子供の数を減らしたがってる。要するに口減らしだよ」
書類上は里親という形をとって、老人組織は子供たちを譲り受け、森の中で育て始めた。これは養護施設との合意の上、非合法で行われた。
明美と女の子
北村老人が所属した班は五十人ほどで構成されていた。中には夫婦で生活している者もいたが、ほとんどが独り身で6割以上が女性だった。
「東京のどこから?」
先輩の指示で農作業の支度をしていた北村老人に、洗濯物の入ったバケツを下げた女が声をかけた。北村老人は長靴を履きながら振り向いた。
北村老人は、女の顔を見た瞬間美しいと感じた。女は粗末な白い木綿のブラウスを着ていたが、森の中の作業に染まりきっていなかった。都会の臭いを残した上品さがあった。老人と呼ぶにはあまりにも若々しかった。
「あ、浅草の近くで・・・」
「そう。早くここに慣れるといいわね。いいところだから、ここは」
女はそう言うと、谷川の方へ歩いて行った。北村老人は女の後ろ姿を眺めていた。
「明美さんていうんだよ、あの人。美人だろ?ちょっと変わってるところがあるけどね」
班長の島田老人がそう言って冷やかした。北村老人は、「明美っていうのか」と思った。
他の老人数名と北村老人が向かった畑は、森の中腹の南側斜面を開墾したばかりの狭いところだった。
「今日の作業は石ころと、残った木の根っこを取ります。取ったものは畑の外に集めておいてください」
痩せた体で真面目そうな島田が指示を出すと、老人たちは畑に散らばって作業を始めた。北村老人も持ってきたバケツに拾った石を入れていった。
三十分もしない内に、北村老人は腰が痛くなった。足も痺れてきた。北村老人は立ち上がって腰を伸ばした。北村老人がふと谷川を見下ろすと、洗濯をする女たちが見えた。北村老人は明美の姿を探した。明美の白い服が陽の光に反射していた。
「東京の方はどんな感じだい、今」
島田が、しゃがんだまま近くに来て声をかけた。
北村老人は思わず腰を下げて答えた。
「別になにも。かなり住みづらくはなったけど」
「そうかい。そうだろうな」
島田は納得して、また離れていった。北村老人は、石を拾いながら谷川の方を見つめていた。
農作業にも慣れてきた頃、北村老人の班が暮らす森に、一人の女の子が息を切らしながら逃げ込んできた。昼ご飯を済ませてのんびり過ごしていた老人たちは何事かと集まってきた。
女の子の右膝は転んだのか、擦りむけて血が流れていた。女の子は泣きながら老人たちに訴えた。
「助けて!変な人に追いかけられて!」
「変な人?」
「誰だ一体?」
老人たちは首をかしげた。女の子を取り囲んだ老人たちの後ろから島田が声をかけた。
「警察の送り込んだ工作員だよ。きっと子供を奪い返しに来たんだ」
島田が言うには、森の組織には公安警察の工作員が潜り込んでいるらしく、養護施設から連れてきた子供を密かに誘拐しているという。
女の子はまだ震えていた。
「どこの班の子だろう?」
老人の一人が島田の方に振り返って訊いた。島田は女の子の顔をよく見た。
「たぶん、理事の班のところの子だな。最近入った子だと思う」
「理事のところか。どうする?」
先程の老人がまた島田に訊いた。島田は少し考えてから答えた。
「あそこへ返すのはよそう」
その言葉を聞いた女の子が声を出した。
「あそこには帰りたくない」
この班を管轄する理事はあまり評判が良くなかった。特に女性に対してだらしないと噂されていた。また、理事の所属する班は理事の特権で子供をほとんど独占していた。島田の班にはまだ子供は一人も送られていなかった。
「理事に断らなくて大丈夫か?」
「私から言っておくよ。一人ぐらい構わないだろう」
島田は女の子の頭をなでながら言った。
「でも、誰が面倒を見るんだ?」
老人たちは顔を見合わせた。
「あたしが面倒を見るわ!」
明美が後ろの方から口を挟んだ。明美は老人たちの間を抜けて前に出ると、女の子の髪の毛をなでて顔を見下ろした。女の子は明美を見上げると笑顔になった。
遺体の密かな売却
自治会組織を模して作られた森の老人組織は、当初は民主的で自由な雰囲気の下に営まれていた。しかしこの頃本部では、三代目会長派と副会長派に分裂する危機を迎えていた。見かねた二代目会長の仲介によって一時は収まったものの、派閥(はばつ)間の争いの火種はくすぶっていた。
三代目会長は、組織の運営資金の確保に力を入れようと考えていた。森の中で寿命を迎えた老人の遺体を、リサイクル工場に売却するという案だ。これに副会長は猛反発した。
「何を言ってるんだ。遺体をリサイクルされたくなくてここへ逃げてきたんじゃないか」
「いや、それは違う。ここでは自由に余生を送って天寿を全うしてもらっている。都会のように、老人の死を待ちかねているのとは訳が違う。リサイクルは目的ではない。充実した人生の後に、未来の人のために役に立つんだ。どうか理解して欲しい」
二人の背後では両派閥の仲間たちが、それぞれのリーダーに加勢するため、相手方リーダーへのヤジを飛ばしながら見守っていた。奥の方では小競り合いも始まった。
「わしはそうは思わない。死んだ後だろうと体を切り刻まれるのは御免だ!」
副会長は断固として拒否した。
「なんだ!火葬だったらいいのか?同じことじゃないか?あんたの爺さんだって、親父だって火葬だったじゃないか」
会長の語気も強くなった。
「火葬とリサイクルは違う!火葬には死者への尊厳があった」
副会長の顔も紅潮している。
「何が尊厳だ!バーベキューじゃねえか」
会長の言葉使いが汚くなった。
「なんだと!もういっぺん言ってみろ!」
とうとう二人の掴(つか)み合いが始まってしまった。直ぐ後ろに控えていた役員や理事たちが慌てて止めに入った。会長と副会長の話し合いはいつもの様に物別れに終わった。
翌日、会長は派閥の主だった役員を集めた。
「このままだと、この組織は先細りだ。なんとか運営費を稼がなきゃならない。今までみたいに捕った獣の肉や川の魚を売るだけじゃ、どんどん入ってくる老人たちを養うことができなくなる。副会長派のことなんか説得している暇はない。どうせあいつらは聞く耳を持たないからな。そこでだ」
会長の次の言葉を周りの役員が待った。
「亡くなった遺体を密かに森の外へ運び出す。リサイクル工場の人間とは話がついているから心配するな」
「でも、副会長派にばれたら?」
役員の一人が質問した。
「大丈夫だ。あの副会長だって、仲間の手前あんな格好をつけてるだけで、資金は欲しいと思ってるんだ。既成事実さえ作ってしまえば何も言わなくなるさ。あいつらだってもっと楽な暮らしをしたいからな。それに・・・」
ここで会長は周囲を確かめた。
「それに、このことは政府にも話を通してある。相場より高く遺体を引き取ってもらうことになっている」
「本当ですか!」
理事の一人が大きな声を上げた。
「静かに。だからみんなも反対する理事たちの切り崩しに頑張ってもらいたい。このことは、本部だけじゃなくて、他の支部も一斉にやるから」
「わかりました!」
こうして、各地の森の組織から老人の遺体が密かに運び出されることになった。
三代目会長の裏リベート
ある日の総理官邸の玄関に、後部座席に三代目会長が乗った黒塗りの高級車が停まった。会長は、総理付きのSPが開けたドアからゆっくり降りると、慣れた足取りで玄関の中に入っていった。
総理官邸の応接間では、総理と会長が談笑している。
「いやあ、今回の件は助かりましたよ」
年下の総理は会長に敬語を使っていた。会長はソファーに深くもたれている。
「こちらこそ、助かりましたよ。なにせ、森の中での暮らしなもんでね。先立つものがなくて苦労していました」
「森での生活はどんなもんですか?」
総理は煙草に火をつけた。
「ははは。退屈ですよ、まったく。たまには都会に出て息抜きをしませんとね」
会長も、総理に進められた煙草に火をつけた。
「聞いていますよ。あなたも都会で羽を伸ばしているのを。あっちの方はまだまだお達者のようで」
総理は煙草を持った手で会長を指さした。
「こりゃ、まいったな。ははは。とにかく、これからも宜しくお願いします」
会長は頭を下げた。総理が、控えていた秘書に目配せすると、秘書は白い封筒を会長の前のテーブルに置いた。
「こちらこそ、お願いします。あ、これは少ないですが取っておいてください」
「度々すみません。それでは遠慮なく」
会長は封筒を上着の内ポケットにしまうと立ち上がった。
「それでは、これで失礼します」
会長は総理に一礼した。総理も立ち上がって軽く頭を下げた。
「あ、そうだ。リサイクル工場の方から貴方にリベートがいくようにしてあるので、そのつもりでいてください」
「これは、これは、深いご配慮、まことに感服いたします。これからも総理のために尽力して参ります」
会長は、総理の手を握って何度も頭を下げた。
新しい家族
明美のもとで、逃げてきた女の子は落ち着きを取り戻した。女の子はいつも明美の後を付いて回った。北村老人もそんな二人を眺めると幸せな気分になれた。
ある日、女の子が谷の方から慌てて駆け上がってきた。バケツに鍬(くわ)を担いで畑に向かう北村老人の方へ走って来る。老人は女の子に声をかけた。
「どうしたんだ?そんなに急いで。何かあったのか?」
女の子は息を整えると言った。
「おばさんが、足を怪我した!」
北村老人は直ぐに走り出した。女の子も後に続いた。
谷川では女たちが明美を囲んでいた。明美は左の足首を手で押さえている。北村老人が走ってくると、一人の女が叫んだ。
「足!足!骨は折れてないみたいだけど、歩けないって」
どうやら、明美は洗濯物をすすごうと川の中へ入った時に、石の間に足を挟んで転んだらしかった。いつも気丈な明美の顔色が青白く見えた。
北村は明美の体を両手に抱えようとしたが持ち上がらなかった。
「背負った方がいい。みんな明美さんを背中に乗せてくれ」
北村は、明美に背中を向けてしゃがみこむと女たちに言った。女たちは明美の体をそっと起こして、北村老人の背中にもたれかけさせた。北村老人は明美の太ももに両手を添えると、よろよろしながら山道を登っていった。女の子が後ろで明美の体を支えた。
「ごめんなさいね。重いでしょ?」
北村老人は耳元でする明美の声が心地よかった。
「いいえ。折れてなくて良かったです」
北村老人は力を絞って明美の体を背負った。途中で後から駆けつけて来た老人たちが「代わろうか?」と言っても、北村老人は「大丈夫」と答えて最後まで明美を背負い続けた。
明美の怪我は一ヶ月ほどで回復し、助けを借りなくても歩けるようになった。明美が作業に出られない間、女の子は明美の分まで一生懸命働いた。北村老人も毎日明美の部屋に顔を出し、足の具合を聞いてから作業に向かった。
いつからか、明美と北村老人の仲を噂する者も出てきた。北村老人はそんな噂は気にしなかった。明美も北村老人が顔を見せるのを待っているように見えた。
明美の怪我もすっかり治って、また洗濯の作業に出られるようになった。ある日、理事が大勢の人を連れて北村老人の班にやって来た。本部の三代目会長を始めとする幹部役員の視察だった。
理事は会長の横について班の様子を説明している。会長は黙ってうなずきながら周りを見渡している。
理事は集まった班員たちに説明を始めた。
「みなさん、先日ご案内しました通り、本日は本部の会長が視察にお見えになりました。つきましては、日頃の活動の様子をつぶさにご覧頂きたいと思います。みなさんには、いつも通りのままで活動して欲しいと思います。では、会長、一言お願いします」
会長は一歩前に進むと、取り囲んだ班員を見渡した。
「みなさん、毎日の作業ご苦労様です。おかげさまで、森の組織も大きく育ってまいりました。これからも、新しい時代に向けて更に発展させていきたいと思います。それにはみなさん一人ひとりのお力が必要です。みなさん、一緒に頑張りましょう!」
周りから大きな拍手が起こった。会長の後ろの支部会長を始めとする幹部役員たちも手を叩いている。
「会長、それではあちらの方もご覧になってください」
理事に促されて、会長一行は谷川の方へ下りて行った。谷川では、北村老人と明美、それに女の子の三人が、川沿いの岩の上に腰掛けて楽しそうに話をしていた。
三人に気づいた先頭の理事は「まずい!」という顔をした。本部の会長が来たのに、こんなところで油を売っているのが気にいらなかった。理事は三人と反対の方の景色を会長に見せながら説明を始めた。
会長は理事の説明を聞き流して明美の方を見ていた。会長は明美の足元から頭の先まで観察した。
「会長?会長?よろしいですか、この川の下流はですね・・・」
理事の声に会長は振り向くと、理事の話しを遮った。
「よくわかった。次に行こうか」
会長一行は、また来た坂道を帰って行った。
本部の会長たちの視察が終わった次の日、理事が明美の部屋を訪れた。
「明美さん、実は本部の会長が、明美さんに本部に来ないかと言ってるんです。会長の秘書に来ないかと」
明美は女の子の服の繕いをしながら、理事の話しを黙って聞いていた。
「秘書と言っても、本部の会長の秘書は、会長の身の回りの世話をするだけで、ずいぶんいい思いをできるそうだよ。こんな山の奥で汗を流しているよりは、よっぽどいい。どうかね?行く気はないかね?」
明美は依然として手だけ動かして黙っている。
「これは聞いた話しなんだが、本部の会長は個人の家を都会に何軒も持っているらしいよ。豪華なマンションもあるって。ほとんど都会暮らしで、森の中のことは部下に任しているそうだ。だから、会長の秘書になったら、綺麗な服を着せてもらって贅沢ができると思うよ。どうかね?明美さん」
理事は明美の返事を待った。
「お断りします」
明美は繕いの服に目を落としたまま答えた。予想に反した明美の答えに、理事の顔色が変わった。
「何だって!明美さん、会長に逆らったらどうなるか、わかるだろ?活動資金でも減らされたら、我々はどうなるんだ!」
「断ります!」
明美は理事の方を向いて言った。理事は顔を赤くして叫んだ。
「知らないぞ、後でどうなっても知らないからな!」
理事は蹴るようにして部屋を出ていった。明美の横で静かにしていた女の子は明美にすり寄って心配した。
「おばさん、大丈夫?」
「平気よ。心配しないで」
明美は女の子の手にそっと自分の手を添えた。
その日の夜。谷川を渡る三人の人影があった。明美と女の子、そして北村老人の三人である。
「気をつけて。暗いから足元に注意して」
背中に荷物を背負って先頭を行く北村老人が、後ろの二人に声をかける。明美も背中に小さな荷物を背負いながら女の子の手を引いている。女の子は片手に小さな風呂敷を抱えている。
三人は谷川を渡ると反対側の山を登り、尾根伝いに山を下って麓に出ると、最寄りの鉄道の駅へ向かった。駅に着くと建物の影に隠れるようにして始発電車を待った。夜が開けて始発が到着すると、辺りを確かめてから駅の中に入っていった。
車内の座席に座ると、直ぐに女の子は眠り始めてしまった。明美と北村老人は女の子の寝顔を見ていた。
「これからどうするの?」
明美は北村に言った。北村は少し考えていた。
「どうとでもなるよ。これからは三人が家族だ。家族ならどうやったって生きていけるよ」
北村は強がりでなく本気でそう思った。ホームレスで世を捨てていた自分とは思えない心境だった。人生の終わりに来て、再び愛する家族を手に入れた思いがしていた。
すやすや眠る女の子と、女の子の髪を優しくなでている明美を見ながら、北村は胸の中で思っていた。
「そう遠くない内に、わしも二人と別れる時がくるだろう。その時は、わしの体を売ってくれ。そうすれば、当分二人が暮らしていけるだけの金は入るだろう。いざとなったら、そうしてくれ。わしも自分の体を刻まれたくはなかったが、二人のためなら嬉しいよ」
車窓の向こうの山から、オレンジ色の朝日が上り始めた。三人を乗せた列車は、都会に向かって走って行った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?