シャルトルへ行きました。⑦

七、いよいよシャルトルへ。

 明け方にようやく寝落ち、二時間後に目覚ましが鳴ったときは深い眠りに入っていた。泥沼からもがくように身体を起こしてブランケットを剥ぐとアルコール臭がぷーんと漂う。何故夜中に飲むワインはこうも残るのか。
「シャワー、シャワー」
と起き上がるが、昨日のフライトではエコノミークラスのミール・カートを何台も引いたため腰が痛い。何を着よう。スーツケースの中にはゴムウエストのプリーツスカートやトレンチコートといった軽装しかない。欧州の秋は冷えるからと、トレンチにライナーを取り付けて羽織ってみるが、姿見に映った自分が余りにオバサンっぽいのでうんざりする。コロナ太りで四キロ増え、今やバンビというよりマトリョーシカのようだ。シャルトル行きはやはり取り止めようか。

「だめよ」

 なんだなんだ? 独り暮らしが長いと自分との会話が増えるというが、自分もそうなっていたか、と心の中で失笑する。まあ確かに一度断ったのを自らやっぱり行きたいと言ったのに、また気が変わったとは言えない。腰を摩りながら身支度を調える。少しでもすっきり見えるようにと、髪をまとめ、疲れを見せないようにと濃いめの口紅をつける頃には行く気満々となっていて、スマホの充電を確認したりしている。一体どうしたのだろう。昨日まではシャルトルなんて考えてもいなかったのに、何故こうも気持ちが高ぶっているのか、自分でもわからなかった。

 シャルトルへはマイクロバスをチャーターして向かった。「電車よりこっちの方が楽ですし、大人数だと値段も大して変わらないんですよ」と若田は説明し、皆からバス代を徴収する。仕事ではミスが多くて早紀子を悩ませている若田だが、遊びのときはしっかりしているではないか。これは呆れるべきか感心するべきなのか。
 バスの中では、皆テンションが高く賑やかだったが、内輪な話題が多くて会話に入れない。車窓から外を眺めると、セーヌ川上をバトームッシュが行き交い、マロニエの街路樹は黄金色に色づいている。広場の回転木馬、エレガントなファサードの建物ーー。気づくと眠っていたようで、「西島さん、着きました。西島さん、サキさん!」と若田に揺り起こされた。
 シャルトルではまずは腹ごしらえすることになり、皆で角にあったカフェに入る。大きなカップに並々と注がれたカフェオレは湯気を立てていて、ひと口飲むごとに、ワインを飲み過ぎて水分欠如気味の身体に染み入るようだった。クロワッサンもバターたっぷりで日本で買うものの倍はある。一口分をちぎろうとすると、表面がハラハラと落ち、中の生地がリボンのようにほどけしまう。しょうがないのでがぶっと齧り付く。すると口の中にじわっとバターの味が広がり、ほのかにミルキーな甘味も感じる。思わず、「おいしっ」と声を漏らすと、前にかけている村上が、「ええ、ほんとに」と頬張ったまま目で応える。そんな何気ない遣り取りなのに、目頭が熱くなり慌てた。思えば、こういう風に誰かと食卓を一緒にするのは久しぶりだった。コロナ禍で会食は控えていた。そこに実家がなくなり、ステイ先では単独行動。食事を一人で取ることにすっかり慣れたはずだったがーー。
 内側から暖まり、一同機嫌よく石畳の坂を昇ってシャルトル大聖堂に向かう。時計は十一時を指していた。
「このあと、どこでお昼食べましょうか」
と誰かが聞いている。
「呆れた、今食べたばかりなのに、もうそんなこと言ってるの!」
と皆が笑う。
 石畳の道を歩く後輩達に目を遣る。きゃっきゃと笑い声を上げる集団は女子大生の海外旅行と見紛われることだろう。大体、ちゃんと全員揃っているのだろうか。
「村上さんは、あ、あそこか。たしかあの子、コロナでお母様を亡くしたんだよね。隣にいるのは津ーーじゃなくて川上さん。旧姓に戻ったばかりだからついつい呼び間違えそうになる。若やんはパーカーのせいか猫背が目立つわね。そういえば彼女は採用が留まっているから三年連続で下っ端扱いされてるのか。その隣の片山さん。朝から私が大丈夫か気にしてくれているのは知っている。それにしてもあのスキニー・ジーンズ、ちょっと細すぎない? 子育てとの両立がきついのではないかしら」 
 一人一人をカウントしていると、ユニット員それぞれの身上書が思い出された。今さっき「学生のようだ」と呆れたばかりだが、ふと、この若い後輩達も何かを背負っているのかもしれない、という思いが頭を巡る。今の世の中が生きづらいと思っているのは若い人も同じーー、いや、先が長いだけに若い人の方がもっとそう感じているのかもしれない。着任時の面談で、後輩達が自分に向けていたまなざしの切実さを思い出す。「将来が見えないんです」と言っていたっけ。
「それなのに、私はーー」
その先の言葉が見つからなかった。ものすごく大切なことを見落としてきたような気がした。少し考えたい、いや考えなくては。
 だがそうこうしているうちに、大聖堂の前の広場に到着してしまった。まず待ち合わせの時間を決めた。何人かは英語のガイドツアーに参加するというので、二時間後に集合するということでまとまる。私もツアーに興味があったのだが、英語を聞き取れる自信がない。ツアー不参加組は先に歩を進め三々五々に別れる。片山が目で「ご一緒にいかがですか」と誘ってくれたのだが、「ありがと、でも大丈夫よ」とジェスチャーで返した。何となく、そうすることが正しいように思えた。

つづく

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