ウィーンへ行きました。⑦

インペリアル・トルテ、モーツアルト、そして告白

 午後、ケルントナー通りにある、インペリアル・ホテルのティールームで美樹と綾乃と待ち合わせした。
 このホテルは十九世紀に宮殿として建てられたという。ホテルのロビーは、ロココ調でシルクや金銀をふんだんにあしらった豪奢な内装だ。基本的に簡素なスタイルが好みだが、このロビーの見事なバランスに感心した。デコラティブなのに浮ついたところはなく、重厚な落ち着きがある。ああ見えて実は音大出身の美樹が入手した情報では、毎週火曜日はティールームでピアノの生演奏があるという。今日はそれがお目当てだった。

 オーダーを終えると、静かに切り出してみた。ピアノは、軽やかなモーツァルトのソナタ曲を奏でている。
「昨日の綾乃の話、わたし、わかるような気がするの。何がって、最初はちょっとしたことだったんだよね。偉そうなこと言われても、『男ってそういうところがあるよね』って流してさ。それが少しずつエスカレートしていく。物を投げつけられ、頬をつねられ、それでも『大したことじゃない、私も悪かったし』ってね。で、気づくといつの間にか傷が一杯」

 ピアノはテンポのよい曲に代わった。美樹がシューベルトの小曲だと教えてくれる。綾乃は、形のよい頭を俯かせて考え込んでいる。美樹も、お目当てのインペリアル・トルテが運ばれてきたのに手を付けず、腕を組んだまま難しい顔していた。
「でも、そうなると恐くって動けない。彼のことも恐いけど、それよりも、一人に戻ることが恐い。綾乃、違っていたらごめんね。ーーこれわたしの話なの。わたしも彼も、お互いのことを好きだとは思うんだ。でも、その『好き』が歪んでいないか、って最近自問しているの」
 北京便でのこと、そのあとの藤野の死から考えたこと、そして原田から感じる、わたしをコントロールしようとする力についても話した。綾乃も美樹も、時折頷きながら静かに聞いてくれた。
「藤野さんのことはショックだったの。自分の近未来を見たような、そんな気がしたからだと思う。このまま結婚できずに、仕事も飽き飽きしてるけど続ける。外地ステイは憂うつで、夜は眠れない。そのうち身体が弱って、神経もすり減らして、ある日息が止まって、一人ぼっちで死を迎えるっていう」
 「死」を口にした時、自分の心臓が一瞬止まったように感じた。
「私、わからなくなっちゃった。彼のことがわからない。そもそも、本当に好きなのかもわからない。ーーううん、嘘。わかってるんだ。私、結婚に逃げ込みたいの。ずるいよね、不純だよね。でも、今、また一人に戻るのはつらいのよ。耐えられる自信がない」
 そこまでいうと、肩がふわっと軽くなった。心の重石を取り除いたようだ。ティーポットから薄いアールグレイを注ぐ。ピアノはまた別の小曲に変わっていた。

 美樹が、このピアノ曲は全三曲から成っていると解説し、そのまま言葉を継いだ。
「わかるよ、ユキの気持ち、すっごくわかる。藤野さんのことは私もショックだったもん。一緒に仕事したこともあるし。あんなに頑張ってはったのに一人で死んじゃって、可哀想っていうか、悔しいって思ったよ。何で死んじゃったの、悔しいって。
 でもさ、そのうち私は負けへん、あぁ、絶対負けへんって思ったん。だから告別式のお手伝いした時、そう祈ってきた。藤野さんの分も頑張るでぇ、って。女一人だってやるでぇって」
 美樹が藤野のことを気にしていたとは、思いも寄らなかった。北京便のときも、藤野へ冷たい視線を送っていたくせに、葬儀の手伝いにも行ったなんて。目の前で、インペリアル・トルテにフォークをグサッと刺して、「うわ、甘っ」とほおばる美樹の知らない一面を見た思いだった。美樹は長いこと、ある妻子持ちの副操縦士と前向きに付き合っていると思っていたが、「女一人」っていうことは、別れたのだろうか。思わず美樹の肩を抱いてしまった。
「なんやねん、それ」
 美樹は笑いながら、わたしに抱かれるままでいた。

 綾乃はわたし達の様子に微笑んでいたが、一呼吸置いてから口を開いた。
「ねえ、ゆき恵、踏ん張りどころよ。ゆき恵が感じている『権力』って、彼がゆき恵を支配しようとしている、ってことだよね」
そこまでいうと、綾乃は、はっとしたように、一瞬口を止めた。気づくと、ピアノの演奏も終わっていた。
「そんなのおかしいよ、絶対おかしい」
綾乃は茫然としながら、繰り返し、そう言った。

←前へ

次へ→

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?