創作小説③ マイ・ストーリー~Awakening
(前回の続き)
片頭痛に襲われたのは何年ぶりのことでしょう。私の場合、まず目がチカチカして吐き気に襲われ、その後に突き刺すような頭痛が来るというバターン。この日は幸い夫も息子も夜は遅く、(帰任して以来、また息子も一緒に住んでいます(^-^;))、娘はいつも自分でダイエット食を用意するので、私はひたすら眠ることに。そのお陰で、明け方4時過ぎに目が覚めたときは、目の奥に鈍痛が残る程度までに回復していました。
階下に降りると、窓から月光が差し込み、蒼い空気が居間を包んでいました。片頭痛後の目にはこのくらいの薄明かりがちょうど良く、電気は付けずに、ポットのお湯を沸かし直します。再沸騰ボタンが消えるまで、しばらくぼーっとしていましたが、そうだ、と思い出し、カーディガンのポケットに入れたスマホを取り出します。片頭痛の元凶はインス☆に投稿された私の写真です。しっかりと状況を確認しなくては。
私の勘違いかもしれないと、心のどこかで期待していましたが、残念ながら、そうは行かず。ありましたよ、黒い帽子を目深に被った私の写真。薄暗い中で見るせいか、皓々と光る写真の私は、「そうよ、これアナタよ。受け容れなさい」と挑戦しているよう。
でも私も負けません。10時間も寝てすっかり元気になっていますから。
「悪いけどアナタは私ではないわ。私、黒い帽子なんて持っていないもの」
と心の中で言い返します。
そうなのです。この写真は私ではありません。このところ、成りすまし投稿の被害に遭っているというのに、「もしかしたら私が投稿したことを忘れているだけかも」とか、「もしかしたら早期認知症なのかも」と思い悩んでいましたが、今回の写真をもって、晴れて無罪が確定したようなもの。問題があるのは私ではなくてインス☆の方なのです。実は例の訴訟のときも、「私の非ではない」と知っているのに、「あの時にメールを確認していなかったかも」「あの時に気づかなかった私が悪いのかも」とグラグラしだし、それ故に不利な立場に追い込まれました。すぐ自分を疑うのは私の悪いところ。ここに来てまた罠に嵌まりそうになっていたのです。
さあ、「黒い帽子の私」を吟味しようではありませんか。
白湯の入ったマグカップをカウンターに置き、バーチェアにしっかり腰掛け、人差し指と親指で写真を引き延ばします。帽子を目深に被っているので、顔の上部は隠れていますが、頬骨の出っぱり方など、やはり私だと思います。どこから盗んだのでしょう。盗んだ写真と帽子を合成したのでしょうか。それとも、アバター技術か何かを応用するのかしら。そう言われて見ると頬から顎に掛けて心なしかシュッとしていて、肌もシミや弛みが少なめです。昨日も、片頭痛に襲われながらも、「あら、映りがいい」と目の隅でキャッチしていたのですが、改めてそれを確認し、「うん、悪くないわ」などと独り言ちる能天気な私。奇怪な成りすまし詐欺に遭っているというのに、頭のどこかで、「本当の私も、このくらいシュッとしていたらいいのに」なんて思っている自分に呆れてしまいます。
気づくと、月が隠れたのでしょうか、暗闇が濃くなりました。電気を付けようと立ち上がったその時です。
「でも、本当の私って何?」
という疑問が湧いたのです。
本当の私。
そのとき私は、夜明け前の暗闇の中、居間に一人立っていたわけですが、スマホを見つめていた目は部屋の暗さに慣れておらず、自分の身体すら見えません。まるで透明人間というか、存在がなくなってしまったようです。自分が見えないと平衡感覚が崩れるというか、足元を掬われそうな不穏な気持ちになり、取り敢えず、椅子を手探りで掴むともう一度座り直しました。
電気代わりに再びスマホを点け、何とはなしにインス☆を見下ろします。「黒い帽子の私」は沢山コメントを貰っているようです。気もそぞろなまま流し読みすると、いつもコメントを残してくれる方からは、「naomamaさん、思っていた通りの素敵なマダム! お帽子もお似合いです♡」というありがたい言葉がありました。また私をリアルで知っている旧友からも、「帽子か。いいね、奈緒に良く似合っている」と書き込まれています。優しいコメントなのですが素直に喜べません。だって本当の私は、こんな帽子を被るような人間ではないのです。帽子なんて夏の日焼けよけのものしか持っていません。それに、顎はこんなにシュッとしていないし、頬も顎も弛んでいますから似合わないですよ。それなのに、「思っていた通り」というのはどういうことなのでしょう。昔から知っている友まで、「似合っている」っていうのもおかしい話じゃないですか。成りすまし画像に本当の私が上塗りされたようで、気持ち悪くなりました。
では「本当の私」はどんな顔なのでしょう。スマホを自撮りモードにして、自分を直視します。手の平の画面には、前夜の頭痛で浮腫み、暗がりのせいか肌も灰色にくすんだ私がいました。世の48歳はこんなものなのでしょうか。「黒い帽子の私」より、軽く十歳は年取って見えますよ。
あまりの酷さに、スマホを閉じたくなりますが、逃げずに見つめることにします。その昔、会社に所属していた頃は、ぱっちりした目がピカチューみたいだ、と褒め言葉なのかそうでいないのかよく分からないことを言われたものですが、その目も随分ぼやけていること! 特に左目の瞼が弛んで下がっています。いつの間にこんな風になっていたのでしょう。右目を手で隠すと、まるで泣いているかのようです。口角線も、この数年で随分深くなりました。「ああ、この皺が刻まれたのは、あの時かな」、と、夫の朝帰りが続いた頃を思い出したり。
じっくり自分の顔を分析した後は、自撮り画面を閉じ、iCloudにある昔の写真を引き出します。年老いた自分の顔を見ていたら、若かった頃の自分で慰めたくなったのです。
何回かスクロールすると出てきました。二十二年前の、息子が生まれた時の写真。産後だというのに、私の顔の張りの良さったら。体重も戻っていなかっただろうに、頬も顎も今よりシュッとしています。その後、娘が生まれ、私の顔も母親っぽくなってきました。入園式や入学式、そして卒業式。今の家に引っ越したときの家族写真に、パリ時代のママ友たちとの写真。つい昨日のことのようですが私のピカチュー顔も、今よりずっとマシです。
もっと以前の写真はデジカメ時代の前なので戸棚の中のアルバムにしかないのですが取りに行く気は起きません。あの頃の自分は、今や遠すぎて自分のことではないようにすら思えます。美大生だった頃、高校生だった頃の自分。父の娘だった頃、母の腕に抱かれていた頃の自分。
あゝいつの間に時は過ぎていったのでしょう。
子ども時代は少女漫画やアニメ・キャラを真似して描くのが好きでした。それで高校から美術系の女子校に進んだのですが、直ぐに自分の才能のなさを痛感したんですよね。それなのにエスカレーターで美大に繰り上がり……。私の苦い青春の一コマです。
いや、考えてみると、そのあともビターな道を歩み続けてきたのかもしれません。就職はアート系は諦め、住居デザインでお茶を濁すつもりだったのに、デザインではなくて電気配線図の道に送り込まれたことは既に書いた通り。それでもポジティブに、手に職付けることができたのだからいいか、と受け入れていたのに、訴訟でそれすらも取り上げられたのですから、かなりビターですよね。
いえ、あの仕事には未練はないのです。何と説明したら良いのでしょう。好物ではないけれど、出されたら食べることは厭わない、そんなおかずを延べ25年食べてきて、さすがにもう要らない、という、そんな心境なのです。この不景気な時代に贅沢なことをいっていることは分かっていますが、これはもはや配線図を書きたくなっても書かせて貰えなくなった私の「負け犬の遠吠え」ですから大目に見てやってください。
でも配線図の仕事へ執着がないというのは本当です。自分でも呆れています。子育て優先でやって来ましたから、仕事への入れ込み方が足りなかったのでしょうか。いえ請け負った仕事はきちんとこなしてきましたよ。いい加減なことはしていません。子育てと家事、そして配線図描きで忙しく暮らしてきて、充実していたとすら思っていました。
でも、その仕事を失い、失ったことを悔いてもいない。これは何を意味するのでしょう。子育ての方も、息子は先に書いた通り16歳で手の中をすり抜けるように羽ばたいていき、娘は元々手が掛からない、というか構わないで欲しいタイプ。「やり遂げた!」という実感があれば良かったのでしょうが、子育てというものはある時期を過ぎれば自動的に巣立ちへ向かうところがあるので、特に達成感もなく。そうなると私は何をやってきたのでしょう。 「本当の私」、今48歳の、本当の私は、空っぽ、ということ?
いや、この際、正直に胸の内をさらけ出してしまいましょう。
仕事が、子育てが、と理屈っぽいことを言ってきましたが、問題はそこではないことは知っています。
ずーっと昔から知っている。
私は、今まで本当に「生きて」きたのか。本当に、精一杯生きてきたのか。器用に真似して、したたかに計算して、適当に辻褄合わせて生きてきたのではないか。そうでしょう? もう認めちゃいましょうよ。
若い頃から、ううん、子どもの頃から、「それでいいの?」という声が聞こえていたよね? 心の奥深いところで、木霊のように繰り返す声、聞こえていたよね? それなのに、「いいの、これで」と説き伏せてやってきたんでしょ。どうしたの、今頃になって、そんなこと言い出しても手遅れよ。アナタ48歳だもの。
ーー物思いに耽っていたら、外が白んできたようです。夜が明けたのでしょう。でも、私の頭の中はますます混沌としています。小説であれば、夜明けとともに答が見えてくるはずなのに。
さあ、どうしましょう。人生の沼。覗き込まなければよかったのに、もう逃げられません。どうしましょう。
※この小説に登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。