シャルトルへ行きました。⑥
六、 午前二時、ステイ先ホテルにて。
目が覚めたとき、一瞬どこに居るのか分からなかった。時計を見れば午前二時。不思議なもので、どの国にいても夜中に目が覚めると時計はいつも午前二時を指している。朦朧とした頭でベッドの足元に置かれたスーツケースと、その脇に並べられた制靴をぼーっと眺めながら、「フライトで、パリに来て、今ホテル」という認識にようやくたどり着いた。
私は一度目が覚めると明け方まで眠れない。ベッドの上に身を起こし、ブランケットの上に広げておいた部屋着用のチャンチャンコをパジャマの上から羽織る。このチャンチャンコは母の還暦を祝ったときに、姉が私の分も縫ってくれたのだ。私のは、子どもの頃に初めは姉が、次に私が着せてもらった晴れ着から仕立てたという、ピンク地に薔薇柄のチャンチャンコだ。貰ったときは、「こんな田舎臭いの、どうしよ」と苦笑したが、正絹は軽いし温かい。また、ピンクの薔薇という少女趣味な色柄も、ホテルで独り寝する寂しさを少し軽くしてくれるので有難かった。
今までならこんな風に姉のことを思い出したらラインで「どしてる?」と連絡したものだがもうそれはできない。代わりに、
「姉ちゃん、どしてなん?」
と奥歯を噛みしめるだけだ。
家業の和菓子屋が倒産すると、名義には私も名を連ねていたので負債を背負わされた。結婚用に積み立てていたものや社内預金など貯金の大半が消えた。それだけでも大打撃だったが、それよりも、信頼していた姉が経営の実状を私に伏せていたことだ。前々から義兄がリスクを取り過ぎていると苦言していたのだ。それでも義兄は耳を貸さないので、せめて借入といった大きな決断を下すときは「姉ちゃん、ちゃんと連絡してよ」と釘を刺していた。それなのに姉は夫を優先し妹を裏切った。最後の話合いの席では、
「姉ちゃん、ここから先のことは、もう私、知らんから」
と言い捨て実家をあとにした。帰りの新幹線では、姉がエプロンを顔に当てて泣いている姿が頭を占領した。
胸がずきっとして我に帰る。ベッドの上でやりきれない悲しみに襲われていると、サイドボードに置かれたワインボトルに目が止まった。先ほど半分飲んだところでコルクしたジゴンダスだ。ホテル近くのスーパーで見つけたもので、日本の三分の一くらいの値段だった。「よっこらしょ」とベッドから抜け出し、バスルームから、先ほど使って洗っておいたワイングラスを取りに行く。
ワインを啜りながらぼんやりと考える。これからどうやって生きていけばいいのだろう、と。この二、三年で全ての前提が変わってしまった。ずっと、いつかは結婚できると信じていた。結婚して子どもも二人くらい産んで、都内のタワー・マンションに住んで、と確信していたのだ。それが仲野に裏切られ、コロナがあって、あっという間に時間が経ってしまった。来年は四十になる。子どもは産めるのだろうか。いや、結婚も、果たして出来るのだろうか。
仕事も状況が変わった。コロナ禍のせいで、航空業界は大打撃を受けている。どこまで需要が戻るのか分からない。いつ異業種に出向させられるか、それとも早期退職を迫られるのか、ヒヤヒヤしながら過ごしている。貯金が大きく目減りした今、失職するわけにはいかない。以前であれば、とりあえず実家に戻るという選択肢もあったがそれも最早ない。あそこに帰れば姉がいて、私の場所があるという安心感、それすらも消えてしまったのだ。
一人で生きて行く? お金もないのにそんなこと出来ない。考えただけでワイングラスに涙がぽたぽた落ちる。こんな年になったのに、子どものように怯えている自分にうんざりする。大人なのだから自分で何とかしなくてはいけないことは分かっている。分かっているけれど泣けてしまうのだ。
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