翼をひらくとき④

女の一生ってこれなの?

 孝一と結婚したあと直ぐに妊娠した。慶子は三十を過ぎていたし、孝一も既に四十近かったこともあり二人とも大喜びした。妊娠中、孝一は仕事のため単身でシンガポールに向かうことになった。当初は半年間程度の予定だったため、会社の規定により単身赴任となった。
「自腹になるけれど、ついてくることもできるよ」
 と孝一は申し出たが、そんなことをしたら後ろ指指される、そういう会社ではないか。それに慶子はCA時代にシンガポールへは何度も行っていたが、あまり好きなフライト先ではなかった。乗降用ドアを開けた瞬間に流れ込んでくる、蒸れた空気の、むわっとした匂いが蘇った。初めての妊娠だし、つわりもきつい。「ううん、待ってる」と断った。
 その後、孝一のプロジェクトは三か月、さらに三か月と遅延し、合計一年以上別居状態となった。その間に、慶子は一人で満を産み、子育てする事になったが、近くに親もいたし、満は健康優良児だったので不安はなかった。白状すると、孝一がいないと子育てに専念できるので楽なくらいだった。この時期に別居というのは悪くない、と思ったほどだ。

 孝一が帰国して一年程経った頃、慶子は告白を受けた。シンガポール時代に現地で知り合った女性と関係を持ったということだった。その女性に対して持っていた気持ちが、愛情なのか別のものだったのか、分からないまま深みに嵌まった。だが孝一の本帰国が近くなってくると、先方の精神状態が不安定になり、彼を脅したり、ついには他の男性と関係を持つようになった。それで孝一も目が覚め、別れた、ということだった。ナイーブな彼のことだ、お金も渡したのかもしれない。
「もう終わったことだから黙っていようかとも思った。でも、それも間違っているような気がしている。オレにとってこの家族が何よりも大切なことが分かった。これから一生かけて償っていく。今すぐ許せなくてもいいから、チャンスを与えて欲しい」
 と頭を下げられた。何故孝一が告白をしたのか、慶子には分からない。その女が脅してきたのかもしれない。孝一が急にLINEのアカウントを閉じたことを不思議に思っていたところだった。だから先に謝っておくことにしたのだろうか。たとえそうでも何も言わないでくれた方がよかった。慶子だって気づいていたのだ。シンガポールから出張で帰ってくる孝一のスーツケースを開ける度に、むわっと漂う、熟れすぎた果物のような匂いに。だがそれはシンガポールのホテルで使っている洗剤のせい、もしくは南国の湿気のせい、と思うようにしていた。孝一が何も言わなければ忘れることにできる匂いだった。
 翌日から満を連れて千葉の実家に戻った。両親には適当な理由を作ってしばらく滞在したのだが、一度出ると実家というものは居心地悪い場所になる。一週間も経つとマンションに戻るしかなかった。
 それに二、三日経つと当初抱いていた孝一への怒りは鎮まっていた。いや、慶子はそもそも自分は怒っていたのかさえ、分からなかった。実は孝一から告白されたときも、心中は冷静だった。だけど「こういうとき、妻ならば怒るべきよね」と考え、取り敢えず家を出たのだ。
 驚きはそれほどにはなかった。孝一には、こういう苦労させられると覚悟していた。孝一は美男子ではないのだが男独特の色気がある。ただ、孝一はそれを自覚しておらず、そんなことをしたら女は勘違いするだろう、ということをよくするのだ。付き合っていた頃も、前の女から脅迫紛いの電話がかかってくることがあった。相手は慶子も面識あるCAの先輩だった。「中途半場なことをしちゃだめよ」と忠告したが、孝一はそれができない。相手の話に耳を傾け、そのうち心配までするという有様だ。孝一の携帯を取り上げ、先方の番号をブロックしたのは慶子だった。孝一は慶子が嫉妬してそうしたと思ったかもしれないが、そんなことはなかった。孝一の慶子への気持ちが本物である限り、相手の女性のことは気にならなかった。
 このシンガポールの女も同じだ。孝一が言うまでもなく、孝一が慶子を必要としていることは分かっていた。ならもうよいではないか。

 それなのに、あれ以来、慶子は孝一に触れられることに耐えられない。孝一の身体がのし掛かってくると、あのむわっという熟れすぎた果物の匂いが蘇るのだ。

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