翼をひらくとき③

仕切り直し

 この事故の後、一年ほどして慶子は退職した。腰痛を理由としたが、本当はあの事故のトラウマに耐えられなくなったからだ。
退職後は系列の派遣会社を通して本社の事務職に就いた。そこで孝一と出会った。
 孝一は、慶子が配属されたワン・アライアンス部の上司だった。孝一は、慶子が派遣される少し前にサンフランシスコ支店から戻ってきたと聞いていたが、なるほど本社の仕来りや、日本のサラリーマンの作法に慣れていないところがあった。
 慶子は、CA職だったとはいえ日本空輪の独特な社風や考え方は熟知していた。エアラインというと風通しがよく最前線を行く、というイメージがあるかもしれないが、その実はがちがちの日本企業だ。何かを変えたいと思うのなら、表面では同調しながら水面下で事を運ぶ、というやり方をしないと足を引っ張られる。慶子は、孝一のタクティクスに欠ける部分を補ってあげようと、差し出がましくない程度に、プレゼンやレポートの語尾を言い換えたり、時には、咳払いをして言葉が過ぎる孝一を黙らせたりした。
 孝一はすぐに慶子の配慮に気づいた。食事に誘われたが、「お礼なんていいですよ」と慶子は遠慮した。が、孝一は、「いやいや、ものすごく助かっているし、もっと教えて貰いたい」というので、時折一緒に食事をするようになった。孝一はサンフランシスコ時代に仕事や生き方に関して考えさせられる出来事があったそうで、そんな話をよくした。孝一は、正直に自分の気持ちを明かす人だ。そのうちに、慶子も以前は客室部にいたこと、だが事故を起こしてしまって、未だにそのトラウマに悩まされていることを告白した。
「兄川さんは生真面目すぎるんだよ。アメリカだったらアイムソーリーも言わずに、飛び出たカートが悪い、訴えてやる! って騒ぐよ」
 と孝一は笑った。あの明るい笑顔に救われた。
孝一と過ごす時間が長くなった。仕事でもデートでも、一緒にいると楽しかった。この人とならやっていける、と思った。いやそれよりも、孝一を放って置けない気持ちがあった。慶子の方が十近くも若いというのに、おかしい話なのだが。
 半年ほど経った頃に、孝一から「君なしでは生きていけない、頼む」とプロポーズされた。慶子は思わずクスッと微笑んでしまった。

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