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【8】認知機能障害を抱えたままの復職
くも膜下出血の後遺症のひとつとして記憶の認知機能障害があります。
クマちゃんの場合、水頭症の手術をしたからすぐに治るというものでもなく、社会復帰した後もちょっと前のことは覚えていられない状態でした。
本人も会社側も、どこまで仕事ができるか分からないまま倒れる前と同じ業務はできない、ということでとりあえず本社勤務に。
残業や休日出勤がない広報部門に籍を置くことになりました。
それまでが激務だったせいか、新しい部署での仕事は楽しそうでした。
「秋は本当にきれいだから」と、休日にわざわざ私を連れて出かけるほど、東大のイチョウ並木を通っての通勤経路が気に入っていたようで、毎日自然の中を歩くこともいいリハビリになっていたようです。
同じ部署の人たちとランチに行ったり、学校訪問をしたりと、クマちゃんから聞く新しい生活は何の問題もないように見えました。
でも、それは私たち家族を気づかってのこと。
「俺すぐに忘れちゃうから、なんでもメモしておくんだ」
当時、冗談めかして言っていたことが、とてつもない苦しみから出ていた言葉だと知るのは、遺品整理で見つけたノートを開いたときでした。
走り書きの文字が並ぶそのノートは、クマちゃんがメモ帳替わりにしていたものです。
〇月〇日〇時〇分〇〇さんからの電話を受けた。
内容、~~~。
〇月〇日〇時〇分〇〇さんから言われたこと。
内容、~~~。
毎日、出勤から退勤までにあったことを、時間とともに事細かにメモを取っていたクマちゃん。覚えていられない不安と闘いながら仕事を続けていたのです。
認知障害が残っていると知りつつ、
「やっと会社に行ってくれた」「やっと元の生活に戻ることができた」
と安心しきっていた自分が情けない。
「こんな体になってごめんな……」
退院してきたとき、クマちゃんが泣きながら私に言った言葉です。
謝ることなんてないのに。
元気になって私と子どもたちの元に戻ってきてくれただけでいいのに。
あのときのクマちゃんには、体は元に戻っても認知障害は残るのでは?という不安があったのかもしれません。
なのにそのまま復職させてしまった。
「早くひとりになりたい」
「早く自分の時間がほしい」
そんな自分勝手な思いで、私は後遺症に苦しむクマちゃんを見捨ててしまったのかもしれない。
ノートの文字を読みながら、涙があふれてあふれて……。
もっと早く見つけていたら優しくなれたのに。
もっと気持ちを分かっていたら寄り添えたのに。
でも、もう遅い。
次の試練は11年後にやってきた
「家族や会社に迷惑をかけたくない」
その一心で毎日頑張っていたクマちゃんでしたが、年を追うごとに認知障害はなくなっていきました。
「それこの前言っただろ」
「あ、そうだ!私の記憶違いだったわ~」
お互い50を過ぎ、私のほうが物忘れが多くなってきたころ、
私たちはこのまま平和な日々が続くと思っていました。
娘が大学2年、息子が高校2年の終わりが近づいていた3月19日。
クモ膜下出血の退院から11年経ったその日、私たち家族は、また試練の日々を迎えることになりました。