電車で行ってみようTHE 千葉県【流鉄流山線】5.7kmの路線に散りばめられた歴史とドラマ
総武流山線から流鉄流山線へ
流鉄(りゅうてつ)という名前に聞き覚えがない方もいらっしゃるかもしれません。流鉄は千葉県流山市にある鉄道会社で、流山線は松戸市(馬橋駅~金城趾駅)と流山市(鰭ヶ崎駅~流山駅)を結ぶ全長5.7kmの路線に5駅を擁する全線単線の路線で、馬橋駅から流山駅までの所要時間は11分です。こじんまりした鉄道ですが、昼間でも15~20分間隔、朝のラッシュ時には13分間隔で運行されており、地域の方々にとっては心強い生活の足となっています。
2008年8月1日に総武流山電鉄株式会社は流鉄株式会社に社名変更し、それにともない路線名も総武流山線から流鉄流山線(りゅうてつながれやません)に名称変更されました。総武流山線の時代から、利用者からは「流鉄」と呼ばれることが多く、社名変更はそれを正式名称としたものでした。
路線の周辺は、首都圏のベッドタウンといわれる住宅街ですが、流山市を含む東葛地域一帯は江戸川と利根川に挟まれ、かつては江戸へ物資を輸送するルートとして栄えた水運の町でした。周辺には往時の繁栄を物語る史跡が数多く残っていることが特徴です。
車両に付けられたニックネーム
流鉄流山線がユニークなのは、走行している全車両にニックネームが付けられていること。それぞれの名称に合ったカラフルな塗装が施されています。
現在走行しているのは、薄いピンク地に濃いピンク帯の「さくら」、橙色地に青帯の「流星」、臙脂色地に白帯の「あかぎ」、黄緑地に白帯の「若葉」、黄色地に黄緑帯の「なの花」5車両です。過去には「流馬」と名付けられた車両も走行していました。
プラットホームでは子どもたちが、「流星が来た!」「僕が乗るのは菜の花だ」とはしゃぐなど、その愛称は地域の人々に広く浸透しているようです。
流鉄流山線の起点駅「馬橋駅(まばしえき)」
JR常磐線への乗り換えができる、流鉄流山線の起点駅。JRとは別改札で、流鉄のホームから伸びる階段でJRとつながっています。JR常磐線のホームと比べると、流鉄のホームはとても短く、ローカルな気分を盛り上げてくれます。
JRの新松戸駅が目と鼻の先「幸谷駅(こうやえき)」
JR常磐線・武蔵野線の新松戸駅に近く、乗り換に便利なため、乗降客も多く、駅周辺も賑やかです。マンションの一階部分に駅があるというのもユニーク。
路線中唯一の交換駅「小金城趾駅(こがねじょうしえき)」
単線路線である流鉄流山線は、交換設備がある小金城趾駅で、列車同士の行き違いを行っています。周辺は、戦国期に高城氏の居城であった小金城があった地域で、駅から徒歩10分の大谷口歴史公園には、城の名残りが点在しています。
古さと新しさが混在する町「鰭ヶ崎駅(ひれがさきえき)」
JR武蔵野線・つくばエクスプレスの南流山駅に近く、駅東側には、新興の住宅街が広がっています。
流山の歴史を色濃く残す「平和台駅(へいわだいえき)」
駅前には大型のショッピングセンターやロードサイド型の商業施設が建ち並びまずが、少し足を伸ばした住宅街のなかには、流山の歴史を感じさせる史跡が多く点在しています。
流鉄線の終着駅「流山駅(ながれやまえき)」
静かな住宅街の中にある「関東の駅百選」の認定駅。江戸川沿いには、のどかな景色が広がる。
名産品を手にれる!みりんの町・流山を象徴する「マンジョウみりん」
「しょうゆは野田、みりんは流山」といわれるほど「みりんの町」として知られていた流山。そんな流山で最初にみりんをつくったのが当時酒造りを営んでいた相模屋二代目当主の堀切紋次郎です。紋次郎は、江戸中期の文化11(1814)年、白みりんの醸造に成功。「万上みりん」と名付けられたみりんは日本全土に広まりました。大正時代に入ると、堀切紋次郎家は野田で設立された野田醤油株式会社(後のキッコーマン)に参加。万上みりんは、「マンジョウみりん」として、現在も流山キッコーマンの工場で生産されています。
※工場で販売は行ってません。ご購入の際は、お近くのスーパーや専門店でお買い求めください。
もっと知りたい流鉄線沿線の地名
間に鞍馬状の橋がかかっていた「馬橋(まばし)」
室町時代から見られる地名です。北側の小金城と、南側の中根台にあった城との間を流れる長津川に馬の鞍の形をした橋がかかっていたので馬橋になったという説と、間の橋→間橋が馬橋に転じたとする説があります。
弘法大師創建の寺に海竜が残した背びれ「鰭ヶ崎(ひれがさき)」
地形が魚の背びれに似ているので鰭ヶ崎と呼ばれるようになったとする説と、神龍が残したひれによるとする説があります。神龍伝説は、弘仁5(814)年に弘法大師がこの地を訪れ、東福寺を創建した際に海竜が出現し、竜宮の霊仏を差し出したが、その海竜が海に戻るときに背びれの一部を残していったとするものです。
関東平野を一望する要地に築かれた城「小金城趾(こがねじょうし)」
駅の東側に高城氏の居城である小金城(別名大谷口城)があったことによります。城は、千葉氏の家老原氏の重臣であった高城胤吉による築城で、享禄3(1530)年に着工し、天文6(1537)年に完成しました。室町時代の享徳の乱で上杉氏と対立関係に入った際に、上杉謙信勢の下総侵攻を防ぐ拠点とするために高城氏が小金に配置されたものと考えられています。小金城の城郭の一部は大谷口歴史公園として整備されています。