自己肯定感が高まれば、あおり運転も気にならないのでは
皆さん、こんにちは。今日は少し控えめに、でも温かい気持ちを込めて、車の運転中によく遭遇する「あおり運転」について考えてみたいと思います。
あおり運転、なぜ嫌な気分になるの?
運転中、後ろの車にあおられると、多くの方が嫌な気分になるのではないでしょうか。その理由はいくつか考えられます。
まず、安全への不安が挙げられます。あおられることで、事故の危険性が高まると感じるのは当然のことです。また、急かされているような感覚も不快感を生みます。
しかし、最も心に響くのは、「批判されている」という感覚かもしれません。「もっと速く走れ」「邪魔だ」といった無言のメッセージを受け取っているような気がして、自尊心が傷つくんじゃないでしょうか?
あおる側の心理とは?
あおる側の人の多くは、自分の欲求や感情をコントロールできていない可能性がありますよね。急いでいる、イライラしている、あるいは単に自己中心的な考え方をしているのかもしれません。危険運転をきっかけに、懲らしめようとしている、とも聞いたことがあります。
ただ、こう書くと少し気が引けますが、私たちの中にも、知らず知らずのうちにあおってしまっている瞬間があるかもしれません。完璧な人間なんていないですからね。
あおり運転への社会の目
近年、あおり運転への批判が高まっています。2020年には道路交通法が改正され、あおり運転は「妨害運転」として厳しく罰せられるようになりました。最高で5年以下の懲役または100万円以下の罰金なんだとか。
ChatGPT聞くと「総じて、軽度のケースでは罰金刑が多く、重大なケースでは懲役刑が選ばれることが多いと言えます。」だそうです。
社会全体で、この問題に取り組もうという機運が高まっているのは、とても良いことだと思います。それでも止まないようですけど。ドライブレコーダーとか気になると思うんですけど、へっちゃらなんですかねえ。
自己肯定感とあおり運転
さて、ここからが本題です。あおられても気にならない人がいるのは、なぜでしょうか?
知り合いに至っては…
Aさん:「私、車運転しててあおられたことないよ」
私:「???」 ((((;゜Д゜)))アリエナイ!!!
気付いてすらいないという方もいらっしゃる…
私見ではありますが、それは自己肯定感が関係しているのではないかと考えています。自分の在り方に自信を持っている人は、他人の否定的な行動に左右されにくいのかもしれません。
「自分は正しく運転している」「急ぐ必要はない」と確信を持っているから、あおられても動じない。また、「あおる人にも事情があるのかもしれない」と考えられる余裕も生まれるかもしれません。
あおられても慌てないためには
なので、正しい運転をすれば自信が生まれて平静でいられると思います。
車間距離を取っている、スピードも適正だ、他車に道を譲っているし感謝もされた、歩行者に対しても神運転してるぞ、などなど。
"正しく運転してる!"と実感できる正しい運転をしてれば、気にならなくなります(ゼロにはなりませんけど)。私の実体験に過ぎず、他の人に確かめてみたりしてませんが、だいぶ違うように感じています。どう思われるでしょうか?
運転に限らず、どう見ても、だれが見ても、100人中100人が、明確に、絶対に「間違ってる」と言うのでなければ、間違っていると断定できない、と思います。極端に言うと法則・法律に反してなければ、間違いと断定できません。自己批判に陥りやすい方(私はホントそうなんですが)、そのくらいに思ってみていただきたいです。
思いやりの心が道路事情を変える
あおり運転は不快な体験です。しかし、それに動じない強さを持つことは可能ではないかと。自己肯定感を高め、自分自身を大切にすることで、道路でのストレスも軽減できると思います。
これは修行なのかもしれません。
他の運転者への思いやりの心も忘れずに持ちたいものです。急いでいる人、不安を抱えている人、様々な事情を抱えた人々が道路を共有しています。
あおりを罰するのはお巡りさんに任せて、「あおらない」ことに力を合わせたいですね。僕は私は「あおらない」と。
お互いを思いやり、譲り合う心があれば、きっと道路はもっと優しい場所になるはず。ここでもやっぱり大事なのは、共感ではないかと思います。
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