長崎のシーボルトと出島 (DEJIMA AGAIN)
2018年3月の長崎「風雲児たび」(みなもと太郎先生のマンガ『風雲児たち』の登場人物をめぐる旅)、目当ての一つはもちろんシーボルトです。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796〜1866)はドイツの医師、博物学者。日本を研究したがためにドイツ人なのにオランダ人のふりして日本に渡り、妻となる女性お滝さんを心から愛してアジサイに「オタクサ」という学名をつけ、シーボルト事件で国外追放になっても日本のことを思い、ペリーに武力での開国はダメだと説き、追放刑が解かれると日本に戻ってきて日本の立場に立って外国公使たちに疎まれる。『風雲児たち』ではシーボルトの活躍がふんだんに描かれています。
シーボルトが出島にやってきたのが血気盛んな27歳のとき。そこから日本にいた期間が33歳までの6年間と、30年後の63歳から65歳まで2年間。計8年とは思えないほどの痕跡を残しています。
医学生に教える名目で特別に出島から出ることを許され、鳴滝地区に塾を建てます。出島から歩いてみると約3キロメートルの距離、30分かかりました。シーボルトもなんども報復もしたのでしょう。多くの優秀な生徒が教えを請い、その後の日本を変える人材に育っていきます。
ちなみに「青天を衝け」に登場するシーボルトはフランツの息子のアレクサンダー。12歳で二度目の来日をする父に連れられ、その後在日英国公使館の通訳を務めたり、パリ万国博覧会に渋沢栄一らとともに渡仏したり、明治政府に雇われローマやベルリンの日本公使館に勤務したそうです。アレクサンダーが死去したのがイタリアのペリだとか。ペリは建築家レンツォ・ピアノのスタジオがあるジェノバ近郊の小さな町。なぜペリにいたのか興味が湧きます。
シーボルトの娘いねは日本初の女性産科医として道を切り開いていますし、親子共々日本はお世話になりました(ぺこり)。
いつかオランダはライデンの日本博物館シーボルトハウスや、ミュンヘンにある日本の石塔を模して作られたシーボルトのお墓を見に行ってみたいものですね。
さて、シーボルトが滞在していた出島も当時の様子が再現されていて良かったです。館員の生活などが容易に想像できる丁寧な作りでした。
夜も雰囲気があっていいですね。酔っ払った商館員がふらっと現れそう。
その出島に入る表門前の歩道橋が完成直後でした。繊細でかっこよかったので調べてみると、ベルギーやオランダで特徴的な橋を多く手がけているデザイン事務所が関わったとのこと。昔の橋を再現するのではなく現代のデザインを持ってくるところに、次世代へつなげようという心意気を感じます。
東京都写真美術館の「建築 × 写真 ここのみに在る光」展で見た柴田敏雄氏撮影の橋が、出島のそれと雰囲気が似ているなと思ったら、やはりその「ネイ&パートナーズ」の作品でした。
出島は現在、DEJIMA AGAINというキャッチフレーズのもと2050年までに完全復元、海に浮かべることを目指しているそうです。日本にもイタリアのようにもっと歴史景観を大事にした街が増えるといいですね。
後ろのビルがなければもっといいのでは?と強く思います。