司馬遼太郎の小説を読んで、みなもと太郎を思い出す
久しぶりに司馬遼太郎の小説を読みました。昔はよく司馬小説を読んでいたのですが、最近は長編を読む余裕がなかなかありません。
読んだのは『空海の風景』です。感想はさておき。。
漫画家のみなもと太郎先生の未完の大河マンガ『風雲児たち』。そこでの歴史の描き方が司馬遼太郎の「司馬史観」に対して「みなもと史観」と言われることもありました。一人の英雄が明治維新を成し遂げたのではなく、多くの風雲児たちが世の中をよりよくしようとした結果が現代の日本に繋がると。
そう言われると、みなもと先生は司馬小説を否定していたのかと思ってしまいますが、決してそうではなかったと、司馬小説を読んで改めて思いました。
司馬小説によく登場する「閑話休題」「ところで」「話はそれるが」など数々の寄り道、遠回り。それはみなもと先生もやっているではないですか。必要な寄り道をして遠回りをして、それが頭の中で組み上がっていく、まるで曼荼羅のような物語を、両大先生は紡いでいたんですね。
天に召されたみなもと先生を思い出すトリガーはそこかしこに潜んでいます。その度に先生だったらと自分を奮い立たせます。
つい先日も三谷幸喜さんの「ラジオ深夜便」でみなもと先生とのエピソードを聞きました。どうしてその人物にあった生き生きとしたセリフが思いつくのですか、と先生に質問をした三谷さん。マンガは同じ人物を何千回も描かなきゃいけないので面倒臭いんだけど、描いている時間はその人物と一体化しているから自然にセリフが出てくると答えた先生。いい話や。
『風雲児たち』を読んだ今、改めて司馬小説で幕末の人物たちを追ってみたいです。楽しみだ。