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「完全な蜂」は存在するが「完全な人間」は存在しない

エリック・ホッファー『人間の条件について』から引用する。

自然は完全なものだが、人間は決して完全ではない。完全な蟻、完全な蜂は存在するが、人間は永遠に未完のままである。人間は未完の動物であるのみならず、未完の人間でもある。他の生き物と人間を分かつもの、それはこの救いがたい不完全さにほかならない。人間は自らを完全さへ高めようとして、創造者になる。そしてこの救いがたい不完全さゆえに、永遠に未完の存在として学びつづけ成長していくことができる。

人間は自己の内部に問題をかかえ矛盾を抱える。そしてその矛盾の存在により問題を解決しようとする力が自然に働く。矛盾を抱えた人間は何とかしてこの矛盾を解決しようと努力をし続ける。宗教や思想もこの自己矛盾からはじまる。

天使という者が存在するかは知らないが天使について論じる。天使は人間より上の存在だが自己矛盾を持たないという。だから成長することがない。しかし人間は自己矛盾を持ち成長しうる。仏陀が梵天のような天人以上の存在になり、イエスが天使以上の存在になったとされるのは人間が成長しうるからである。

さらにエリック・ホッファーの言葉を引用する。

宗教は、神や教会、聖なる大義などの問題ではない。それらは単に付属品にすぎない。宗教的没頭の根源は自己にある。いや、むしろ自己の拒絶にある。献身は自己の拒絶と表裏一体なのだ。人間だけが宗教的動物である。なぜならモンテーニュも指摘しているように、「自己を憎悪し軽蔑することは、他の被造物に見られない、人間特有の病」だからである。

宗教には教会や教義などがある。しかしそれらは本質ではないという。宗教の本質は自己内部の矛盾にある。たしかに犬が自己を憎悪することはないだろう。馬が自己を軽蔑することはないだろう。しかし人間は自己を憎悪し軽蔑してしまう場合がある。宗教という深い真理に到達するには、深い悩みや自己否定が必要である。それの解決を目指すことが宗教の出発点である。私の別記事から引用する。

悩みが深すぎるとその人の人生を崩壊させてしまう。深い悩みは確かに時に残酷である。しかしその人の精神が深い悩みに耐えられるなら、そしてその人がその悩みと戦うなら、その悩みは「志」になりえる。

苦しみの深さは問題解決のための「動機の深さ」であり、苦しみの深さは苦しみに耐える「精神の強さ」であり、苦しみの深さは解決すべき「問題の大きさ」である。

深い動機と精神の強さがあれば、志を実現するうえで困難があっても最終的には屈しないだろう。解決すべき問題が大きければ、最終的になす仕事も大きい仕事になるだろう。

鈴木大拙は宗教的な深い感情を「霊性」と呼ぶ。宗教に必要なのは「感傷」ではなく「霊性」だと言う。鈴木大拙『日本的霊性』から引用する。

霊性の動きは現世の事相に対しての深い反省から生まれる。この反省は遂には因果の世界から離脱して永遠常住のものを掴みたいという願いに進む。業の重圧なるものを感じて、これから逃れたいとの願いに高まる。

業の重圧を感ずるということにならぬと霊性の存在に触れられない。これを病的だという考えもあるにはあるが、それが果たしてそうであるなら、どうしてもその病気に一遍とりつかれて、そうして再生しないと、宗教の話や霊性の消息はとんとわからない。病的だという人はひとたびもこのような経験がなかった人なのである。病的であってもなくてもそれには頓着しなくてもよい。とにかく霊性は一遍なんとかして大波に揺られないと自覚の機縁がないのである。

霊性的直覚の現前するには穢れが単なる穢れではなくて、地獄決定の罪業にならなくてはならぬ。赤い心が真黒になって、天も地もその黒雲に閉ざされてこの身の置きどころがないということにならなくてはいけない。神は正直の頭に宿るだけでは未だしである。その神もその正直心も清明心もことごとく否定されて、すべてがひとたび奈落の底に沈まねばならぬ。そうしてそこから息を吹き返しきたるとき、天の岩戸が開けて来て天地初めて春となるのである。

悩みを持つこと自体、人間が未完成である証拠だ。内部に矛盾を持つからである。そして人間の悩みは時にその人の人生を破壊する。悩みがその人の糧になると述べるのは無責任かもしれない。しかしその悩みから偉大な宗教的真理に到達した人がいるのも事実なのである。

自分自身のうちの矛盾を宗教的に解決した人は完成された人間になる。そして完成されるとそれ以上は成長しなくなる。原始仏典『サンユッタ・ニカーヤ』から引用する。岩波文庫訳。『神々との対話』という題名で出版されている。

あるとき尊師はサーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独なる人々に食を給する人〉の園に住しておられた。

そのとき或る神は、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、尊師のもとにおもむいた。近づいてから、尊師に挨拶して、傍らに立った。
〈中略〉

傍らに立って、かの神は次の詩句を以て、尊師に呼びかけた。

「森にすみ、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗なのであるか?」

尊師曰く

「かれらは過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことで暮らしている。それだから顔色が明朗なのである。

ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために萎れているのである。―刈られた緑の葦のように。」

我々未完成の人間は過去の悩みを解決するために努力し、未来において完成を目指して努力する。過去に囚われ未来を求める。そのため成長していく。それが成長の原因なので愚かだとは思わないが、たしかに未完成ではある。完成された仏陀は過去や未来のためには生きない。ただ現在のために生きる。完全な幸福が実現する。完成されているため成長は恐らく止まる。
エリック・ホッファー『情熱的な精神状態』から引用する。

完全に調和のとれた人間には前進への衝動も、完全への向上心も欠けているのかもしれない。それゆえ、完全な社会は、つねに停滞する可能性を秘めている。

完成することで人間の成長は止まるのかもしれない。しかしそれでも我々は当然完成を目指す。完全を実現する過程で成長は生じるからである。完成によって幸福が得られるからである。


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