私が哲学に向いていないことを全力で弁解する回
私は哲学に向いてないことを以下弁解する。全力で弁解するのでめっちゃ長くなった。哲学に向いてないというか、厳密に言うと西洋哲学に向いていない。哲学に詳しくない人は「本当か?」と思うかもしれない。哲学に詳しい人でも私の論文を読んだだけでは、哲学に向いていないとは思わないかもしれない。しかし哲学に詳しい人が私としばらく哲学について話すと、「あ、哲学の事よく知らんな」とすぐ気づく。
言わなきゃ分からんのでわざわざカミングアウトする必要もないのだが、これに関連して言いたいことがあるので書いておく。西洋哲学を専門にしている人たちが何人か集まると私は話についていけなくなる。
サッカーの「ゴン中山」こと中山雅史さんはテレビで自分のことを「サッカーに向いてない」と言っていた。私のようなサッカー素人からすると、あれだけ実績があるし、プレー動画を見ても、とても向いていないとは思えない。「本当か?」と思う。
しかし中山さん曰く、中山さんが味方からパスを受けても、長くボールをキープできないのですぐ別の味方にパスしてしまうらしい。するとチームメートは「あ、中山さんはあまりボールもてないんだな」とすぐばれるらしい。名波選手ようにボールをキープできる人に比べてサッカーに向いていないというわけだ。しかしもちろんゴール前の決定力では中山さんは他の追随を許さない。そしてプレーからみえるその情熱はとても印象的だ。「向いていない」と自分で言わなきゃ素人である視聴者は分からないのだが正直な人なんだろう。
私も同様に、哲学の話をすると哲学をよく知らないなとばれる。実際私はヘーゲルもろくに読んでいない。しかし弁解すると私にはそれなりの独創性があるかもしれない。自分の哲学を構築できる可能性。そういう人は他人の哲学を詳しく知らなくてもいいんじゃないか?と自分に甘い判断をしてしまう。
例えばガーシュウィンというアメリカの音楽家がいる。大変独創的な音楽家だ。しかし彼は正統なクラシック音楽の理論を知らなかったという。おそらくガーシュウィンがベートーヴェンをどれほど真剣に聴いて研究していたかは定かではない。恐らく聴いてないだろう。音楽評論家でベートーヴェンを聴いていない人は論外だと思うが、ガーシュウィンのような独創的な作曲家がベートーヴェンを聴いていなくても良いのではないか。
イスラム教の開祖ムハンマドも先行する預言者たちの言葉である旧約聖書に詳しくなかったという。井筒俊彦『マホメット』から引用する。
マホメットとはムハンマドのこと。ムハンマドは人類史上もっとも偉大な人物のひとりである。しかし旧約聖書には詳しくない。旧約学者は旧約の一言一句を知っていないといけない。ユダヤの聖書学者の旧約の究めっぷりは恐ろしいものがある。それに比べるとムハンマドは旧約をよく知らない。しかし宗教者として偉大なのはムハンマドであり圧倒的である。
『歎異抄』に次の親鸞の言葉がある。
親鸞は『教行信証』などの著作もあり、仏教を修めていた。しかし単に知識という点では、親鸞以上に詳しい「優れた学匠」は南都北嶺つまり奈良や京に、当時実際数多くいたのであろう。しかし生きた信仰という点では圧倒的に親鸞が優れていたのである。
私はムハンマドやガーシュウィン、親鸞と同じではない。そんなに偉くないからだ。しかし私にそれなりに独創性があるのであれば、他人の哲学に詳しくなくてもいいんじゃないかと勝手に判断している。
哲学で独創的な思想家と哲学解説者をわける基準はどこにあるか。『論語』憲問篇から引用する。
これだけでは短くて分かりづらい。ショーペンハウエル『思索』から引用する。
この論述は『論語』のきわめて優れた注釈である。さらにショーペンハウエルから引用する。
独創的思想家も哲学解説者も自分の思想を書き他人の思想を読む。しかし違うのは独創的思想家は自分の思想から出発しており、それから他人の書物を読む。それに対し解説者は他人の思想から出発してそれを適当に付け合わせて自分の思想をつくる点である。成立の仕方が違う。
自分のため、自分の成長のため、自分の苦悩を解決するために哲学が行われないと自分の哲学は育たない。自分から発する哲学をしないと、自分から発する哲学は創れない。そして自分から発する哲学でないと後世に伝わる価値を持たない。他人に認められる哲学をすると、他人に認められる哲学ができる。他人に評判の良い哲学が生まれる。ソフィストである。かっこいいからと言う理由で哲学をする。
他人に認められることを目指すのを全否定はしない。それはエネルギーになりうる。しかしその前に自分自身のための思想が前提として根本として必要である。他人に認められるのは結果であり末節だ。自分自身の個性があったうえで他人に認められるのを目指すのは良い。
自分から発する哲学は生きている。生きた人間に近い。「成立の仕方が生きた人間に近い」とショーペンハウエルが言う通りである。それに対し他人に認められる哲学は生きていない。人形に近い。成立の仕方もショーペンハウエルが言うように「寄せ集めの材料からできた自動人形」に近いのだろう。人間と人形は一見同じ大きさであれば同等の価値を持つように見える。とくに同時代人には。多くの人はそれが人間か人形かの違いに気づかない。人形は後世に残らない。人間だけが残る。生きた信仰を持つ親鸞は残るが、生きていない知識を持つ「優れた学匠」は残らない。だから後世の人は意識しなくても人間と人形の違いに気づかざるを得ない。後世の人は親鸞の名前を知っているが、「優れた学匠」の名前をそもそも知らないから。しかし同時代人はほんの一部の人、本当に見る眼のある人たちだけが親鸞の偉大さに気づく。恐らく生きた人間だけが生きた哲学に気づく。
ムハンマドは本当の霊感をもっていた。ムハンマドを馬鹿にした聖書学者は知識を持っていた。親鸞は本当の意味での信仰を持っていた。「優れた学匠」は知識を持っていた。ガーシュウィンは本当の意味での芸術家であった。音楽評論家は知識を持っている。
ショーペンハウエル『知性について』から引用する。
独創者は自ら電気を起こす発電体であっても、他者の電気をよく通す良導体とは限らない。独創者は独創的な思想を創っても他人の思想をすらすらと理解できるとは限らないと言うのである。「学習したことを教え伝えてゆく狭義の単なる学者には向いていない」とある通りだ。
私は哲学の専門家とあまり深くは付き合わない。哲学仲間ができて仲間の間でヴィトゲンシュタインが流行っているとする。みんなでその話をしている。私はその話についていけない。ついていくために読んでみようかなと思う。その時点でノイズが発生している。自分から発する動機から本を読むのではなく、他人からの動機で動いている。他人から刺激を受けるのはいい。特に若い頃はそれは必須だ。他人の勧める本を短期間読むのも個人的にはとてもいいと思っている。私もそれは行う。しかし他人に勧められたヴィトゲンシュタインに何年もはまることで自分自身が何を感じ何を欲しているかを忘れてしまってはいけない。それを忘れなければ他人から勧められた本を読むのは素晴らしいと思うが、他人から認められることがメインになってはいけない。この辺もバランスなのかなと思う。
茂木健一郎氏の『孤独になると結果が出せる』から引用する。
人は自分自身が何を感じているかを自分で気づかなくなりがちである。さらに引用する
大学で哲学するのもいいかもしれない。しかし大学で哲学するとあまり意味のない学派間の対立にとらわれたり、ひどい時にはまったく意味のない学閥にとらわれたり、ノイズが多い。本質的ではない「既存のシステムやしがらみ」がつきまとう。ひとりで哲学をしていればそのような雑音は無く、わざわざ努力しなくても自然と自分から発する思想を紡げる。もっとも自分の思想を発表する場はないし他人に認められることもなくなるが。さらに引用する。
孤独になることで自分が本当は何を欲し何を感じているかが現れてくる。これが自分から発する思想を紡ぐために必要になる。さらに引用する。
自分から発する学問をしないと本当の成長はない。他人に認められるための学問をすると外から見ると成長しているように見えてもそれは本当の成長ではないというわけである。『大学』から引用する。
儒教の修業の出発点として「自分自身に嘘をつかないこと」がある。誰かが言っていたが弓道で手元が1ミリずれると矢が的から大きく外れるように、この『大学』の思想を修行の出発点として若い時に理解していないと、その後の長い人生で大きな狂いが出る。
他人から学ぶことは当然多いし貴重である。しかしそれ以前に自分が何を感じ何を欲し何を悩んでいるかを知らなくてはいけない。逆に自分の感情を知っていても他人と交流しない人を茂木氏は「孤立する人」と呼んでいる。自分の感情を知ったうえで他人と交流もする「孤独な人」とは区別している。私は典型的な「孤立する人」だが、まだ修行中の身であり孤立するのも理由があってやっているつもりだが、一般論としては確かに「孤独な人」が正しいのであって「孤立する人」は足りないところがある。
いずれにしても苦悩がありその苦悩から発して考える人は自分の哲学を創ることができる。そういう人は他人の哲学を詳しく知っていなくてもいいのではないか。独創者は苦悩が解決するまで成長を続けるだろう。
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