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【夢日記】既視感

 或る晩、勤め先の教室でのことである。
 「この文、最初に動詞があるんだから命令文だ。すぐ後の空所に助動詞は入らな…。」と言いかけて、ぼくは「あっ」と云う。「これ、夢で一回云った」、ぼくが思わずそう云うと背筋にすうっと冷たいものが走る。既視感である。
 「これ、夢で見たな」というのはこれまでにも度々ぼくの身の上に起こってきた。それは、幼少期に親父に叱られる場面であったり、級友が帰り道にふと口にした言葉であったり、家族で出かけて初めて来た土地で車から降りた瞬間の空気であったり、或いは、棚の上からコップが落ちて割れる瞬間であったりする。既に見た光景、聞いた言葉、吸った空気となって、夢のなかの体験が再生する。視覚には限定されないわけだから、本当は「既視感」と云うより「既知感」とでも呼んだ方が適当なのかもしれない。
 ぼくが既視感を訴えると、まわりのひとには、訳知り顔で「それは脳の誤作動だ」などと云う者もいた。ストレスなど何らかの事情で脳が通常の働きをし損ねて、経験してもいない「過去」の記憶を脳が拵えて、さも再び経験したかのように知覚させるというのである。しかし、ぼくはどうしてもそれに納得がいかない。その説明では、一度確かに夢で見た、という感じが無視されているように思うからだ。
 ぼくはそれを確かに夢に見た。ぼくの既視感は単に「過去にどこかでこのような光景を見たことがある」というのではなく、それはきっと夢にかかわる現象である。何かを予知する、というほどの大それたものではなく、必ず一瞬だけを切り取るのを常としている。先を見通すことがあるにしても、既視感が人の言葉であるときにはそら、次にはこれを云うぞ、とか、あっ、危ない、皿が落ちて割れるぞ、というせいぜい一秒かそこらのことで、しかもそれを押しとどめる手立てが見つかった試しはこれまでに一度もないのである。「確かに夢で見た」という感じがあって、決まって背筋がぞくっとなってから、押しとどめることが決してできないまま、夢と同じ体験が再現する。
 ぼくにとっては子どものころからときどき起こる現象だが、おとなになってからは段々と頻度が減ってきていたので、スッカリ油断していた。冒頭の現象がツイ数日前にあって、それでこの文章を書いてみる気になったというわけだ。これを読んで、「嗚呼、確かに自分にも同じような覚えがあるな」という方も居られるかもしれない。いつか、どこか物の本で読んだのだろうと思うが、「既視感を経験したことがある」というひとの割合を調査すると、実に三分の二にも及ぶ人びとが経験しているのだとかいうことだった。
 既視感について、幼いころに思い付いたことを思い出してしまったので、最後にそれについて一言述べておこうと思う。それを思い付いたころは夢を見るのが恐ろしくて夜も寝られぬほどになったものだ。おとなになってせっかく忘れていたものを、ぼくは先日の体験のために不幸にも思い出してしまったのである。自分だけ怖いのはどうしても厭だから、ここに書いてしまうのだ。

 自分の最期を見てしまったらどうしよう。

矢張りぼくは末期の瞬間にも、「これ夢で見たな」と思い思い意識を喪っていくことになるのかしらん。


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鉄筆堂
夜な夜な文字の海に漕ぎ出すための船賃に活用させていただきます。そしてきっと船旅で得たものを、またここにご披露いたしましょう。