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街 (2) 〜閉じられた街

 次の日も歩いた。その日は、最初からそこを目指して、前日に麓を廻った山に向かった。登り口は階段になっているが途中から勾配のきつい坂道に変わる。歩く内に、細い山道のすぐ左側が急な崖になり、木々に覆われているのでその険しさが分かりにくいが、足を滑らせたら真っ逆さまだ。崖の下の別の街はここよりもずっと前に開かれ、世帯数も多く店もあり賑やかなのだが、今日は人の声や車の音が湧き上がって来ない。森の中は公園にもなっていて、いつもは綺麗に整えられているのに、今は丸太のテーブルやベンチに落ち葉や折れた枝が覆い被さったままになっている。公園の端にはフェンスで仕切られた奥に、コンクリートの変電施設がある。フェンスに立入禁止の看板が張り付けてあるのが、何も物音はしないのに稼働している標で、いつもはそのコンクリートの質感で目立つのだが、そこも緑で覆われていて、今は背景に埋もれつつある。
 建物の横に、迷い出た何か生き物が見えた。この森には狸もいる。だが、良く見ると、ヘルメットに上下の作業着を着ている人だった。施設のメンテナンスをしている電力会社の社員なのだろう。
 山の頂上に着いて、そこに更に土を盛って造られた高見台に上がった。そこから南には、斜面を無理に削って造成した住宅地が点在するのを飲み込むように、人の手の入っていない扇状の森が続き、その先には、波の無い海が、雲の無い空の青を映して、何にも遮られないままに視界の果てまで広がっていた。船もヨットもいない。息が上がったままその景色を見ていると、開けた眼が向こうの青に張り付いたようになり、ふと遠近感を無くし、身体が青の面に埋まってしまって、周りに音が無い代わりに耳の奥から響いて来る音の粒が青の中に充ちて行った。少しよろめいたが、手摺りに掴まった拍子に目に入った西の富士山の垂直が迫って来たおかげで立て直した。
 石のベンチで休んで、今度は北の方角を見遣った。遠くの大きな街の高いタワーが見える。まだ視覚の動揺が治まっていないのか、そのタワーの展望台に屯する細かな人々の姿さえ明らかに捉えられるような気がした。
 そうして南と北を交互に見回していると、登って来たのとは反対側の森の中からクロスカントリーの男が、急な山道なのに良くぞと思う程の速さで駆けて来て、地面が段差になっている所でジャンプした。空と海と南と北に拡がる平面の中に、彼もまた空中で捕らえられて固まったように見えた。
 山の南側に下りて、昨日も来た寺の空き地に出た。三人の老婆がまたそこで花を摘んでいた。今日はバス通りには向かわず、住宅の間を歩き回ることにしたが、とある家の前に辿り着いて、そこでカフェをやっていると聞いたのを思い出した。だが、看板が出ているわけではない。この街は、風致地区の雰囲気を壊さないようにと、商売のものを外に出してはいけない決まりになっている。その家は、街の中でも特に新しく宅地開発された場所にある、基本の設計はどれも同じの建売分譲住宅群の一つで、品の良い体裁ではあるが、特に目立つわけでもないありふれた外観をしていた。一階がガレージになっている階段を上った二階の入り口も普通の家の玄関なので、中の様子が見えず、ドアを開けて良いものかどうか迷ったが、手前の小ぶりの門の、『林』と刻まれた表札の下のインターホンに気付いてボタンを押した。男が出て、入ってくれとの返答だったのでドアを開けた。
 意外にも、中はいきなりカフェのフロアになっていた。そこに男が立っていて、ようこそと会釈した。短い七三のツーブロック風の髪に切れ長の一重の目の、折り目の効いたタイトな白いシャツと黒いパンツの格好をした、長身で細身だが骨格がしっかりしていて筋肉質の、隙の無い風の男だった。林さんなのだろう。フロアには中央にテーブルが一つだけだった。案内されて、そこのチェアに掛けた。一種類のコーヒーしかありませんが、と林さんが言うのに了承して注文をした。
 フロアの床はしっかりと固めた滑らかな石のような三和土で設られ、壁は樫の板であろうが、良く磨かれてこれも石のような表面をしており、それが天井まで続いていた。しかし窓が無く、それに照明も見当たらない。にもかかわらず、部屋は明るかった。壁と天井が二重になっているようで、その隙間に外光をうまく取り入れて反射させているのかもしれない。
 ここと林さんのことは妻から聞いていた。妻も近所の婦人達から聞いていた。SNSでも話題になっているそうだ。しかし、この界隈に人が押し寄せて来ることはない。店は不定期にしか開かないとか、週に一日午後三時間だけしかやっていないとか、完全予約制だとか、色々な噂が流れているらしい。予約の話は外れだが、他のは当たっているのかもしれず、私は運が良かったのだろうか。
 林さんがコーヒーを運んで来た。フロアには厨房が見えず、物音もしなかった。カップにはスプーンが添えられておらず、ミルクも砂糖も置かれなかった。それらが必要かどうかも尋ねられなかった。林さんはそれだけをして、また奥に入って行った。私が注文してから丁寧に新鮮な豆を挽いて淹れたに違いないので、出て来るまでにだいぶ時間が経っているはずだが、外に開かれているのか内にこもっているのか不分明な光の加減の、しかし、床と壁の硬さが曖昧さを打ち消しているその場で、ぼんやりとはしていないが何かを考えてもおらず、ただはっきりとしたままに、待つ気持ちもなく座っていた。
 一口啜った。濃いがそれを上回る甘い油の味が舌に広がった。壁と同じ素材のテーブルに手をかけていると、さっきの山登りの疲れがまだ残っているせいか、触れた所から私の身体もその部屋の素材に接がれて、そのままどこかへ延びて行ってしまいそうな気になり、微かに聞こえる外からの音も一緒になって遠くへ誘ったが、コーヒーの強さがこちらに引き戻した。
 その行ったり来たりを繰り返して丁度飲み干した頃に、スマホが振動して妻からのメッセージが見えた。途端にテーブルがよそよそしくなって、スマホを切っておかなかったのを後悔したが、フロアに入ってくる光も少し赤味がかって来たので、まあ腰を上げる頃合いかと息を吐くと林さんが既に傍にいた。
 年齢の分からない、いや、年齢が無いような、静かな顔立ちをしていると思った。
 「1万円です。」と林さんが言うのを、持ち合わせが無いので後で持って来ると言うと、「いいえ、結構です。」と林さんは断った。では次に来る時にと言うと、また断った。押し問答はその場所に合わないと思ったので、そのまま外に出た。
 妻からのメッセージは下の街で夕食の肉を買って来いというのだったが、肉はまだ家の冷蔵庫に入っているのを知っていたので、街には下りずに家に帰った。

 次の日、町内会の連絡網の電話で、下りの橋の入り口でバス通りが通行止めになったとの知らせがあった。見に行くと、入り口の右側から下の小道に降りる階段に昨秋の台風の時に傍の大きな木が土砂崩れで倒れて覆いかぶさったままになっていたのを地盤をしっかりと固めながら修復工事をしていたのだが、突然その辺り一帯が地盤沈下を起こして、その場所も地面が歪んで浮き上がり大きな亀裂が走っていたのだった。
 その翌日、通行止めが三ヶ月以上に及ぶと知らされた。

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