街 (1) 〜沈んだ街
外出控えの日々の中で、元々閑静な住宅街なのが、今は人だけではなく、車も道も家も木々も草さえも自らの内側に引きこもっている。夏が近付いた晴れの日なのに日差しには光沢が欠けていて、それが生み出す日陰は薄い墨色をしていた。
風致地区に指定された上品なこの街では例外的な、いつもは喧しい近くの県立高校が息を止めている。
歩きたくなった。ここに住み着いてから十五年経つが、これまで歩きたいと思ったことはなかった。近所の用事を済ませるために足早に通り過ぎるだけだった。
街の中心を貫くバス通りを奥に進み、突き当たりのロータリーに行ってみた。路線バスが停まっていた。静かな街だけにエンジン音が響き渡るのだが、もう何日もそれを聞いてはいないような気がしていた。だがいつものように走っていたのだった。しかし、クリーム色と茶色の組み合わせの地味な塗装も影響してか、何かずっと前からそこに留め置かれたままでいるように見えた。乗車口から中を覗いたが運転手は席にいなかった。
ロータリーの端の石段を上ると、その街の南側を覆っている、高くはないが急な崖の山がいきなり迫って来て、山肌を若い緑に覆われながら所々刃のような鋭い岩を見せつける。崖の麓には狭い道が伸びており、向かい側にはかなり瀟洒な住宅が並んでいるのだが、崖に圧倒され、日当たりも良くないせいで、曇った色の仮設住宅の群れのように見えた。
その道を進んで斜めに分かれる三叉路の右左を適当に選んだ先には、今度は長くて急な階段が下の道路に伸びていた。その階段を下りて更に進むと、また先と同じ様な分かれ道に出くわし、次にまた階段がある。道の両側には一戸建ての家が立ち並んでいる。そして、その先の道でも同じようなパターンがやって来る。いつもと同じ街並みだ。だが今日は人がいない。いや、まばらだが車は走っている。やや遠い所に人影も見える。階段で誰かとすれ違ったような気もする。だが、アスファルトとコンクリートとスレートこそが、今はこの街の表面に迫り出していた。その中を、水路を流される葉のように私は歩いた。
いつの間にか街の最深部の高い所にまで来ていた。そこは先程の崖の裏側の、山の南斜面の麓で、この街ではそこだけが平らに開けた、小学校のグラウンドくらいの広さの空き地だった。近所の寺の所有で、以前は家庭菜園向けに貸し出されて、リタイアしたその街の住人や幼稚園の野外体験学習で活気のある場所だったが、今はそれも廃止になって、雑草で荒れたまま放られている。見ると、その丁度真ん中辺りに、何か白い塊があった。風に揺れていたが、ゴミにしては妙にその白が鮮やかだった。近付いて目を凝らすと、それは、白いふわりとした幼女が着るようなワンピースの、三人の老婆だった。この街の中のもう一つの例外の、老人ホームから出て来たのだろうか。しゃがんで額を寄せ合い、下を向いて何かをしている。しばらくすると三人一緒に立ち上がって、手に持ったものを見せ合って笑った。そして、一人が手のものを他の二人の髪に挿した。菫の花だった。すると他の二人も同じようにして、互いの髪を飾った。全部を挿してしまうと、また一緒にしゃがみこんで菫を摘んで、立ち上がって、また挿し合った。
坂を下って再びバス通りに出て、先のロータリーとは逆の方向に歩いた。街の外に出る道筋だが、この街には、下の大通りを直角に曲がってここまで架かる百メートル程の急な坂の橋を上り切って入るようになっている。街に出入りするにはこの道しかない。その橋の手前の左側に、直接道に面して町内会館がある。
施設というよりもその街の住宅の一つのような作りの建物の入り口のドアを開けて中に入った。すぐ右の受付のカウンターの向こうにあの人がいた。井上さんだ。既に私を見ていた。
「あら、お久しぶり。」
そう言われて、特に用事があるわけでもなく、さりとてちょっと冷やかしに寄る場所でもないのに、そこに足が向き何の躊躇もなくドアを開けたことに自分で驚いた。私も同じ言葉を返した。彼女はカメラのレンズを向けるようにして私を見ていた。
井上さんとは、数年前に町内会の役員の同期だった。この街では、十の班毎に各世帯が順番に二年間役員をする決まりになっている。そのため、進んで役員になる者などおらず、新しい役員の初めての集まりでは皆一様にうんざりとして腰が引けていて、できるだけ浅く軽く任期をやり過ごそうとする。だが、いざ仕事を始めてみると、それまで見えなかった町内の問題や単純ではない人間関係を知らされ、自分の班の住民から寄せられる色々な苦情やらに対応しているうちに、皆自分の生業を後回しにする程に深く入り込んで行くのだった。そして、中でも特に積極的でしかも有能なのが井上さんだった。彼女は、役員の任期の前から町内会館で雑務の仕事をしており、そのため、役員に就いた時には既に街のことを隅々まで知り抜いていた。それに、何をするにしても素早くて質も高く、役員の皆から頼りにされていた。
役に就いている時にはひと月に一度の定例会をはじめとして、よくそこに行ったものだった。町内会館は住民なら誰でも利用できる施設なのだが、住宅地として開かれてから長くはなく今でも新築が彼方此方で建つこの街では、住民同士がさほど馴染みにはなっておらず、と言うよりも、この街は全くの住宅地であって、東京の大きな会社に勤める世帯主を中心としたそれぞれの家族が堅牢な家の内に篭って暮らしており、元々住民同士が交わる風の街ではないので、普段そこを訪れる人はほとんどなく、私にとっても、役員になる前はただよそよそしいだけの建物だったのが、通うにつれて段々と慣れたのだった。
そのためか、ドアを開けてそこに井上さんを見た時、私はそこに彼女がいるのを当たり前のことのように思った。私はそのまま靴を脱いで上がり、街や市の情報の載ったチラシの置いてあるリビング風の一角のソファに腰を下ろした。しっかりとした本革のそのソファのあるそこは、落ち着いたモデルルームの一部屋のようで、私は定例会の後にそこに落ち着いて他の役員達と一頻り雑談するのが好きだった。井上さんも、カウンターから出て、私の正面に座った。
「お散歩?」
垢抜けなさのかけらも無い、端正な顔立ちをして、真っ直ぐに私を見ながらよく通る声音で彼女が言った。そうだと答えて、この時期もここに仕事に来ているのかと問い返した。
「ええ、そうね。毎日来ているわ。いつもと同じよ。誰も来ないのも。」端正さは崩さずに、しかし、少女のような笑みを浮かべた。
「でも、今の方が楽しいわ。いつもだと、やっぱり誰かが来るような気持ちがするけれども、今はそれが無いもの。あなたが来ちゃったけれども、用事は無いのよね?」押し付けがましくそう言うのでもなく、こちらを見透かしているのでもなく、私の面にそう書いてあるのをそのまま読んでいるかのようにそう言った。前からそうだった。
リビングの奥には会議室がある。私は腰を上げてそこに入った。東西の両壁一面がガラス戸の吹き抜けの日当たりの良い部屋で、役員会や生花教室や絵画教室や街の文化祭や、時には住民の懇親会に使われる。しかし、今は人の名残が跡形無く消えていた。振り向くと、井上さんもそこに来ていた。先程と同じ眼で私を見ていた。細い髪が風に揺れている。それが石の彫刻の襞のように見えた。