青磁の茶碗
実家の様子を見に帰省したついでに伊万里の大河内山に行った。というか、自宅で自分の飯碗を割ってしまったので新しいのが要るなと思案していた所、何故か、じゃあ伊万里に行こうと思い付いたのだった。なので、今回の帰省は伊万里に行くためだったと言ってもいい。
とはいえ、伊万里は実家から近いわけではない。高速道路をフルに使っても3時間はかかる。古い日産マーチには荷が重いが頑張ってもらうことになった。
しかし、首都圏に住んでいると、車で3時間というのはあまり現実感が無いものだ。それだけかかるとしたらだいぶ遠くへ行くのか、遠くなければ渋滞に巻き込まれるのかのどちらかだろう。いずれにしても、3時間もかかるのであれば電車を使う。だが、私の故郷のような地方だと、そもそも鉄道網や路線バス網が首都圏のようには発達していないので、移動には自家用車を使わざるを得ない。そうなると3時間といえども車である。都会の感覚からすると大変だ。しかし不思議なことに、実家に帰ってマーチのハンドルを握ると、移動と時間の感覚が変わるのだ。3時間の運転も苦にならない。普通のことになる。それでも、私のように時々しかそういうことをしないと、やはりどうしても旅の感覚を持つが、ずっとこちらに住んでいる知り合いなどは日常の一環としてそうするのだと思う。そう言えば、いつかもっと前に帰省した際に、高校の時の友人が夜中にやって来て、美味いラーメン屋があるからちょっと行こうぜと100キロ離れたその店に連れて行ってくれたのを思い出す。行ってラーメンを食べるだけのことをして帰って来たのだ。そういうわけで、途中でパーキングエリアに寄ることもなく大川内山まで走り続けた。
元々今の佐賀である鍋島藩では朝鮮から連れて来た陶工達による陶磁器生産が盛んだったのだが、大川内山は幕府へ献上するための高級品を作るために特別に藩が管理していた村だ。その当時の陶磁器は、今で言えば半導体レベルのハイテクだったのだろう。もちろん、陶工の墓などが古の面影を偲ばせるとはいえ、住民達は今を生きている。ここには窯もあるし製品を販売する店舗もあるが、何よりもここは人が日々の生活を営む集落である。村の中を歩くと洗濯物が干してあり、カラフルな子供の乗り物が放ってある。テレビの音が聞こえても来る。店に入ると、いらっしゃいませと声をかけてくれる傍で、店主と近所の人が、あそこがこの前家を新築したなどと世間話をしている。だが、コロナの影響で陶磁器を求めて訪れる観光客がだいぶ減ったのか、開店休業している所も少なくなかった。週末だけ開けているのだろうか。しかし、店の規模と様子は一様ではない。新しく綺麗で大きく高級な車が停まっていて中にはきちんと販売員がいる所もあれば、自宅の軒先にこじんまりと器を並べている所もある。メディアに出るような店もあれば、いかにもそういうのが嫌そうな主の店もある。作家性の強い窯もあれば、日用品中心の窯もある。村の内部で格差もあり、色々と摩擦もあるのだろうなと想像しつつ、でも長い長い間何とか皆でやりくりしてここで生きて来たのだろうなと思う。
私の故郷でも、人々は淡々と日々の生活をしている。皆割と良い暮らしをしているようにも見える。家は大きいし、車も一家で数台所有している。コロナの期間は欠航だったが、こちらの空港は韓国や台湾、それに上海への直行便があるので、私の親戚や友人達は気軽にそういう海外へ旅行に行っていた。メディアでは地方の疲弊といったトピックを良く見聞きするが、実際にそこに行ってみると、そういう情報と実情との間に少なからぬ齟齬があって戸惑う。私が地方出身者なので、そして特に帰省した時などは、地方のポジティブなイメージだけを頭の中に集合させているのかもしれない。しかし、やはりそれだけだとは思えない。
確かに首都圏と比べれば、こちらの経済規模はずっと小さく、労働者の収入も少ない。だが、可処分所得から住居費や食費や教育費などの生活に必要な費用を除いた後の実感可処分所得、つまり自由になるお金を採ると、実は東京は全都道府県の内で最下位に近い順位だったりする。よく言われるように、都会で生活するのには金がかかるのだ。だから、メディアを含めて都会からの地方観はどうもズレている。ひとつには、東京に住んでいる優越感から、自分達は豊かで幸せなはずで、それに対して地方民は貧しくて苦しいはずだと思い込みたいのかもしれない。或いは地方が思いの外豊かだと認めるとしても、それは東京の金が地方に回っているからだと、やはり自分達の優越性の主張があり得るだろう。しかし、そうであるにしても、実際の所、地方の生活は悪くない。
けれども、それは、データからそう言えるということだけでもないように思う。と言うのは、地方が案外良さそうだとはいっても、人口をはじめとして社会が縮小し続けているのは確かで、長い目で見れば、やはり地方の状況は深刻だからだ。だが、故郷に帰るとそう言う印象をあまり受けない。先述した交通事情と同じように、その場に入ると意識が変わるのだ。といっても、その意識を通して見たそこの生活世界が希望に満ちているというのではない。おそらく逆だ。そして、そこに住み続けて来た人々は時間をかけてそれを心の中に織り込んで来たのではないだろうか。
ここ数年、実家の近所の農家が田んぼを売って住宅地にする流れが強くなっている。帰省する度に田んぼが消え、代わりに住宅が増えている。もう、農業の後継者がいないのだ。同じ地域に住む農業者の従兄弟にも不動産会社から農地を売ってくれないかと打診があったらしい。その様子に私が、「田んぼが段々と減って寂しくなるね。」と言うと、従兄弟はきょとんとした顔で、「そうか?家が増えて、他所から人が来て、子供も増えて、賑やかになってきたぞ。」と屈託なく言う。
伊万里には時々行くのだが、いつもは白地に藍色の染付を好むのに、今回は青磁に惹かれた。飯碗を一対と小さめの湯呑みを買った。湯呑みはエスプレッソ用のカップとして使うことにする。割ってしまったのは、友人の陶芸作家が贈ってくれた黒織部風のものでとても気に入っていたのだが、今回選んだのはそれとは対照的だ。手に持つと、暗い所でも指が透ける。何か、これからの生活の心構えが少し変わりそうな気がする。