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街 (10) 〜空き家の音

 井上さんはといえば、街のPRに乗り出していた。といっても、肩に力の入った感じでは全く無く、先ずは自分が街の中を歩き始めたのだった。というか、他人から見るとPR活動をしているように見える、いや、本当の所は、彼女のしていることの意味が良く分からないので、何か適当な触り心地の言葉を当てがったという次第だった。実際の所、彼女がしていることといえば、スマホを持って、街中を散歩しているだけなのだ。歩いている途中で、写真や動画を撮ったり、何か思い付いたこと、それは必ずしも街についてのことではなく、料理のことだったり、この国の経済のことだったり、遠い外国の政治のことだったりするのだが、そういうのを録音したりする。それを、街のホームページに片端から載せた。一見、まるで編集せずに、そのまま生データを次々に羅列しているかのようだった。
 そして、散歩の途中で会った住民のスナップも載るようになり、そうすると、町内でその噂が徐々に広まって、井上さんがやって来そうな時間を見計らって、家の外で様子を伺う者も出て来た。

 「入ってみたいお家があるのよ。」
 林さんのコーヒーを飲んでいる時に井上さんが言った。彼女は散歩から帰って来た所だった。
 「取材したいということですか?」
 「うん、まあ、そうね。」
 井上さんは、珍しくやや曖昧な感じの、しかし何か考えている風をした。
 「どちらのお宅なんですか?」
 「高校前のバス停留所をロータリーの方に少し進んで右の路地に曲がる角のお家よ。あなたの所から近いわよ。」
 「ああ、Tさんのお家ですね。でも、あそこは、今、Tさん住んでいませんよ。他所にいる娘さんと同居しているらしいですよ。」
 Tさんは、私と同じ班で、私が班長をしている時に、町内会費を集めた際に、前任者から、あそこは娘さんの所にいるけれども、まだ町内会の会員なので、娘さんに連絡すると会費を持って来てくれる、と引き継いで、その通りにしたことがあった。娘さんに会うと、ご迷惑をおかけしてすみません、と謝られ、手土産まで貰い、何故謝るのだろうとふと違和感を覚えたのを思い出した。Tさんのことはそれきりだった。
 「ええ、知っているわ。」
 「じゃあ、どうして?」
 「あなた、小学生達の噂、聞いたことない?」
 それは、他愛もない噂だった。Tさんの家に何かが出るというやつだ。
 この街は、実は空き家が少なくない。
 高級と評価され、ここに住むのを憧れる人もいて、家を建てたことにステータスを感じ、その家で生涯暮らそうとの住民がほとんどだ。この街で投資目的で家を買うのはあまり無い。だが、そうした住民でさえ、歳を取ると弱気にさせるものがある。坂である。
 歳を取って、車の運転も億劫になり、更に、免許を返納したりすると、下の街とバスで行き来しなければならなくなり、それが面倒になる。それに、坂というのはメインストリートだけがそうなのではなく、この街では、細かい路地もみなそうなのだ。平坦な道がほぼ無い。だから、バス停と自宅の間だけでも坂を上り下りしなければならない。今、町内会館のマーケットから品物を戸配しているのは、そうした事情もある。
 そういうことなので、高齢の住民が、下の街や、Tさんのように他所の、平らな場所に引っ越すことが多い。残された家を貸しに出すこともある。持ち家に住んでいるように見えて、借家住まいの住民も割といる。その他は空き家になるだけだ。
 空き家の様子も様々だが、中には完全に廃墟と化して、草木が伸び放題で、周りの住民から苦情が出る程のもある。子供達の興味の格好の対象になるわけだ。
 それと、これは本当にあったことだが、以前、一人暮らしの高齢男性が、家の中で死んでしばらく発見されないままだったことがある。そうしたことが、子供達の想像力をより刺激することになった。彼らの間では、あそこの家には何が出て、こっちの家にはまた違った何かが出る、というように、どうも街の空き家をそれぞれキャラクター化してマッピングしているらしい。
 Tさんの家は、廃墟とまでは言えないが、ポストにチラシが詰め込まれたままになっているのが目立つ。それに、その家はコンクリート打ちっ放しの家で、その周りをまた頑丈な同質の塀が覆っているので、いかにも館(やかた)めいているのだ。
 「出るんですって。」
と、井上さんは、子供の輝く目をして言った。
 「何が?」
 「何かは分からないのよ。でもね。食堂に来る子達がね、小学校からの帰りに、いつもあそこでピンポンダッシュをしていたんだって。それでね、段々慣れてきて、ピンポンしても逃げなくなっちゃったんだって。そうしたら、或る日、ピンポンしたら、家の中から音がして、それが、奥の方から玄関のドアの方に向かってくる足音だったって言うの。」
 「たまたま、娘さんが来ていたんじゃないのかな。」
 「それがね、その後もピンポンする度に必ずその足音がするんだって。しかも、それが日毎に大きくなって、それに、ジャリッ、ジャリッて、何か重い物を引きずるような音になってきたそうよ。」
 井上さんは、ふざけているようには見えなかった。だが、その真剣さが、何か現実を通り越しているようで、私は戸惑った。
 「これから行ってみない?」
と、井上さんが切り出したが、やはり、冷やかしている感じはなかった。私は断れなかった。

 Tさんの家に着くと、私は、塀の周りを行ったり来たりしつつ、塀には僅かな隙間も無いのに中の様子を窺う振りをした。実際には、住民に見られて変に思われないかと気になって、さぞここに用事があるように見せかけたかったのだ。
 井上さんはそうではなかった。門の前に立ち、そこから正面のドアをじっと見ていた。そして、おもむろにインターホンのボタンを押した。私は思わず腰が引けて、後退りした。井上さんは私の方に顔を向けて、じっとしていなさい、とでもいうように私を見た。
 しばらく、そのままでいた。井上さんは、家の中の反応を待っていた。だが、何も起こらなかった。井上さんは、またボタンを押した。そして、振り向いて私の腕を掴み、ダッシュした。Tさんの家のある角とは逆の角にまで走って、その陰に隠れた。井上さんは上がった息を押さえて声をひそめた。私もそれに倣った。一分程経っただろうか、井上さんは慎重に影から身を出して、Tさんの家に向かった。門の前に立つと、またボタンを押した。今度はそのまま動かなかった。何も起こらなかった。すると、井上さんは、ふっと顔を上げてドアの方を改めて見つめた。真っ直ぐな背筋が更にクンと伸びたようにも見えた。そして、振り返って私を見た。さっき町内会館で話していた時と同じの子供の輝く目をして、微笑んでいた。


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