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街 (6) 〜町内会館の変化
町内会館は、山を切り開いて開発されたこの地に最初に入った、今の長老である住民達が、ここを単なる建物の集まった場所ではなく、街として構えるために作った館で、戸数も少なかった当時、彼らがそれぞれかなりの金を出し合い土地を買って建てたのだった。そのため、それは彼らにとっては小さからぬ達成を象徴する特別に大切なものであり、そのことが、彼らにそれについての特権を与えているように見えさせていた。毎年町の全戸が払う、この辺りの他の町と比べるとかなり高い町内会費も、多くが、彼らの意向を反映して、館の維持と将来の改修のために積み立てられていた。逆に、街灯やゴミ置場の整備や、夏祭りや文化祭などの日々の身近な件には予算が十分に当てがわれているとは言えず、だから、新しい住民達は、そういう運営に不満も感じて、町内会館を訪れることは少なかったし、半ば避けてさえいた。
だが、マーケットとして使われるようになってからは、そうした思いは脇に置いて、新しい住民達も町内会館を訪れるようになった。それに、ホームとの遣り取りができるようになってからは、そこの老人達も寄るようになった。
そして、マーケットには、下の街から調達した品物だけではなく、この街の住民の、共同農園や自宅の庭で育てた野菜も集まるようになった。
その出来栄えには目を見張った。ベランダで作るミニトマトのようなものを想像していたのだが、プロの農家の作物にも匹敵する程で、レタスのような育て易い葉物ばかりではなく、大根や人参に牛蒡といった根菜、南瓜、それにマスクメロンまでもがやってきた。育て方もそれぞれ工夫していて、全員が無農薬であるのは共通だが、自作の肥料の作り方にこだわりがあって、徹底的に家庭内で出る残飯のみを使う者がいる一方で、近くの漁家から売り物にならない雑魚を貰って来て畑の栄養にする者もいた。
出立も本格的で、麦藁帽子に首の手拭い、泥で汚れた長靴で、リヤカーにどっさりと作物を積んで来る様には、マーケットのスタッフ達が思わず唸った。
そういう野菜作りをするのは、仕事をリタイアした比較的年配の住民が多かったが、皆特に農業の経験があったわけではない。一人は私の隣人だが、彼は大手の建設会社の役員だった人だ。今は妻と二人で毎日畑に出ている。
ハンドメイドの品も集まった。これもまた良くできたものばかりで、ジュエリー作家としてやっていけるに違いないレベルのものが、包装やプレゼンテーションも凝りに凝って並べられた。こちらをやっているのは若い主婦が多かった。そして、それを見ては私もと、自作のものを持ち込む住民が次々に現れ、レザークラフトや創作着物や陶芸や木工の作品が溢れた。
加えて、ホームの住人からも品物が提供され始めた。こちらもハンドメイドのものが多かったが、中には驚くほど精緻な切り絵やレース編みもあったし、工芸品の枠を超えて、畳三畳分もの大きさの油絵の作品を担いで来る老爺もいた。その老爺の部屋を訪ねてみると、そこは画家のアトリエそのもので、部屋の中は絵の具の匂いが立ち込め、キャンバスが所狭しと立てかけられ、当然ベッドはあるのだが、それはあたかも創作の合間に取る仮眠用のものように小さく見えた。
それに連れて町内会館の様子も変わっていった。建物にのみ物品を収容するのが難しくなったので庭にテントを立て、そこに野菜などの生鮮品を並べ、屋内には工芸品や作品を置くようにした。
そして、物だけではなく、サービスの提供もはじまった。先ず、料理好きの主婦達が集まって食堂を始めた。それは、町内の老人向けに開いたのだが、学校の帰りにマーケットで働く母達に会いに来る子供達の中には、ついでにそこでご飯を食べる子も出てきた。そうすると、ご飯の前後で彼らはそこで宿題をするようになり、母達がそれを見てあげていたが、しばらくすると、母達の誰かが呼んだのか知らないが、街の大学生や大学院生もそこに寄るようになり、彼らもそこでご飯を食べつつ子供達に勉強を教えるようになった。街のある自治体は高等教育進学率のとても高い所で、街の小学生から高校生は間違いなく全員進学塾に通っているのだが、中には、塾に通わなくなる子も出てきた。もちろん、専門の塾のようなかっちりとした風ではないのだが、子供達は、大きなお兄さんやお姉さんに勉強を教えてもらうのが嬉しかったのだ。