乗っからないこと 〜ガラパゴス化再考
仕事の打ち合わせで、久しぶりに或る人に会った。以前は頻繁に会っていたが、そっくりコロナの期間は御無沙汰していた。若い人で、私のエージェントをしてくれていて、いつも面白い仕事を持って来てくれる。とても活力に満ち溢れており、元々は営業マンなのだが、今では会社を二つ経営し、その他の所でも取締役をやっているそうだ。コロナの前は一つの会社だけだったので、この間に凄い勢いでキャリアアップをしたのだ。やっている事業の内容も興味深く、人が自己実現をするためのサポートを目的としたサービスを立ち上げていて、ユーザーの自己分析用のアプリの開発やユーザーが何か活動をするための施設のレンタルなどをしている。人脈の広さにも驚くばかりで、その道の権威とか、一般には目立たないが古い家柄の富裕な名士などと沢山繋がっている。
その日は和食の静かな店で昼食を一緒にしたのだが、彼は自分の事業の話が止まらない。両隣の客達も彼の話に聞き耳を立てているのが分かった。
彼は時々、自分の事業を一緒にやらないかと持ちかけてくる。そしていつも、私はやんわりと断る。そういう時に顔を出すのが、過去の記事でも書いた、凄いとは思うけれども憧れはしない、の構えだ。但しこれは、相手からの働きかけに対して斜に構えているということではない。捻れた嫉妬心の現れでもない。もっと若い頃はそういうのがあったかもしれない。いや、というよりも、その頃は、嫉妬じゃないと言っているけれども実はそうなんだと密かに思っているのだと思っていた、と幾重にも捻れていたと言った方が良く、それが、上の構えを知ったことで解けたのだった。
彼の勢いに腰が引けてしまうのかもしれない。それは当たっているような気もする。誘ってくれてありがとう、でも私はちょっと・・・、という気持ちが確かに湧いて来る。だがこれも、嫉妬の場合と同じように、あの構えによって解ける。
しかし、あの構えはどうにもポジティブさというようなことからは遠い。或る時、やはり彼が協業を持ちかけて来た際に、その時の彼は特に積極的だったのだがそのせいか、私が断ると、あなたは受動的だ、と私を批判したことがある。確かにそうなのだ。だが、私はそれで負い目を感じているわけではない。私は受動的ではあるが消極的ではない。積極的に受動的なのだ。言葉使いが面倒くさいのだが、ここではあえてこの点を気にしてみることにする。
先ず、積極的と能動的の違いをググってみた。意外にもこれを説明しているサイトがなかなかヒットしなかったのだが、見つかったのにはこう記されていた。
また、
ともある。
他方、消極的と受動的については、消極的は物事を進んで行わない様を表し、受動的は他者からの働きかけを受けて行動する様を表すと説明されている。この説明に私は納得する。
つまり、積極的と能動的は一応互いに異なった意味を持ち、消極的と受動的も同様なのだ。ということは、先に言った、積極的に能動的であるという言い方もおかしくはないことになる。しかし、これ以外のサイトでは積極的と能動的を同じ意味に、消極的と受動的も同様にしていて、実際普段の軽い他人との会話では私もそのようにしており一々気にしはしない。但し、ビジネスの場面では、積極的で能動的なことが良しとされるので、消極的と受動的は一律良くないこととしてまとめて一蹴されてしまいそうでもある。彼はこの用法で使ったのかもしれない。
ちょっと、四語の組み合わせで遊んでみる。
積極的で能動的なのは、正に彼のような人のことだろう。
積極的に受動的というのが私だが、これについてはこの後に述べる。
消極的で能動的というのはどうだろうか。有り得なさそうな感もするが、いやいやながら他人に働きかけている様ということだ。教育に熱心ではない教師や無精な親ややる気のない上司が、生徒や子供や部下に怒鳴っているイメージが浮かんでしまう。そうすると、消極的で受動的なのは、怒鳴られている生徒や子供や部下だ。
ついでに英語も調べてみた。こちらも似たようなことになっている。
積極的は、activeやpositiveなど。
能動的は、active。
消極的は、passiveやnegativeなど。
受動的は、passive。
英語でも、積極的と消極的が能動的と受動的の意味を持つこともあり広い意味で使われ、それに対して、能動的と受動的は意味が絞られる。積極的と消極的は行為の様子を表すが、能動的と受動的は他者との関係性を表す。
但し、英語の方には特に目に留まる語がある。passiveだ。これの語源はラテン語のpatiorであり、その意味は、耐える、や、苦しむ、だ。そしてこれは、passionと語源を同じくしており、passionは一般に、情熱、の意味で使われるが、同時に、受難、という意味も持つ。そう、あのキリストの受難のことだ。
言うまでもないが、私は自分をキリストになぞらえているのではない。受動性が積極的であり得る如実な例としてキリストを参照したまでだ。
しかし、受動性が積極的であり得ることだけを私は言いたいのではない。受けること、やはりこの仕組みを見なければならない。
受ける、というのは、既に何かがあり、そのものから影響を受けるということだ。そしてその際に肝心なのは、その対象はあくまでもそのままにしておくことである。これが、能動性とは異なる点だ。能動性においては、相手から苦しみを受けた場合、私は相手を作り変えようとする。或いは相手自体を他の者に変えようとする。しかし受動性においては、私は当の相手からの苦痛をそのまま受け続ける。そして、変わるのは私の方である。
だから、受動性は何もしないことのように見える。彼が私を批判したのもその点に対してだろう。しかし、そうではないのだ。
自分が変わるというのは、相手の見え方が変わるということだ。しかし、軽い意味でではない。右側から見るのと左側から見るのとではあなたの姿が違って見える、でも、あなたはあなただ、というのではない。ここで言っているのは、私にはあなたが光として見える、右から見ても左から見ても光が見えるのであり、あなたは光なのだ、ということだ。硬く言えば、私が変わるというのは私の実存が変わるというであり、それによって、あなたの実存も変わるのだ。
つまり、受動性も相手を変えることができるのである。そして、敢えて言うが、能動性よりも深く相手を変える。能動的な働きかけには、相手の実存はそのままに相手の衣装だけを変えるというような、どこか表層的な所がある。それに対して、受動性は、直接相手に触れるのではないが、あれっ、この人の私への接し方がこれまでとは変わった、と思わせ、そして相手は、変わった視線を投げかけられる自分を見直す。何か私が変なのかな、と。この意味で、受動性は暴力的ですらある。相手の自画像を揺るがせてしまうのだから。
あの構えは、私としては、このような受動性のことなのだ。
彼が一緒にやろうと言う案件の舞台装置や登場人物を、私はその視線でみる。そして、彼自身をそのように見る。これは、私なりの彼への応援だ。私は、彼がこれからの事業で成功しても失敗しても彼を見続けるし、彼の言葉を聞き続ける。それが、他の誰でもない、彼の声に耳を傾けた私の、彼への責任だと思っている。
ということで、本稿は副題にある『ガラパゴス化再考』という枠組みの一環である。容易に分かるように、本稿における受動性はガラパゴス的なものである。他にもガラパゴス的な概念は沢山ある。それらをこれから再考してみたいと思い、第一弾として本稿を書き始めた。なぜこんなことをするかというと、世の中にガラパゴス化という言葉が出始めた時に、私はそれが肯定的な用法で使われているのだと思い込んでいたのに、実は逆だったことを知って少なからぬ衝撃を受けその波がいまだに続いているからだ。
考えてみると、私がnoteを始めて以来の通奏低音となっている、見ること、もガラパゴス的なものである。その逆は、つまり、能動的なものは、作ること、だろう。しかし、私は、見ることから作ることを再定義してみたいと思っている。だがそれは、この枠組みでの作業の最終段階になる。
大体、日がな一日海端を散歩していると、どうしたってガラパゴスの亀みたいになる。ああ、以前の記事で、私が憧れるのは猫だと書いたが、亀も加えておこう。