街 (5) 〜老人ホームの女
ホーム側の輸送担当との打ち合わせは日々かなり密にしなければならなかったので、私はホームにもほぼ毎日入るようになった。
そうすると、あの三人の老婆もよく見かけることになった。だが、そこで見る彼女達のワンピースは、あのふわりと軽い柔らかさを失っていて、所々に茶色の染みが付き、袖や裾は擦り切れ、入院着のようだった。髪もボサボサに乱れていた。そして、私と顔を合わせる度に、彼女達は何故か敵意の籠ったような鋭い目つきで私を睨むのだった。
或る日、彼女達が私に手招きをした。
近付くと、一人がいきなり私の手首を掴み、別の一人は反対の手首を掴んで前に引っ張り、残りの一人は私の後ろに回って背中を押した。三人共、細い体にしては意外な強さで私を動かした。そして、一階のフロアの奥の、シーツやバスタオルや毛布を保管してある部屋に押し込んだ。
「あんた、私達がここを出てあそこに行っていること、職員にバラさないでよ。」
老齢で弛んではいるが、はっきりとした二重瞼のかなりの美形の老婆が言った。身長が高い。私より僅かに低いくらいだ。どこかで見たことがあるような気がした。しかし何よりも驚いたのは、その口調に弱さが微塵も含まれていなかったことだった。あの場所で遊んでいる様子からしても、かなり進行した認知症を被っていると見ていたのだが、それは私の思い違いだったのだろうか。
すると、後の二人も、「そうだ、そうだ。」、「駄目だよほんとに。」などと、怖い目をして下から体を圧し付けてくる。
バラしてなどいなかった。だが、私がバラさなくても、既に職員は知っているだろう。あれは隠されるような光景ではないからだ。彼女達は花が咲くようにあそこに現れて、街の者も花を見るように通りすがりにあれを見ているはずだ。
バラしていないことを伝えると、彼女達は、今度は「良かった!」と、折角隠れたのに、ロビーの方まで聞こえる程の甲高い声で、疑いを持たない真丸の顔をして喜んだ。そして、美形の老婆が落ち着いた目をして「ありがとう。」と言った。
確かに見たことがあった。何十年も前の私が生まれる前に活躍し、私は彼女が引退してから初めてその作品を見た、映画女優だった。活躍していた頃には国民的な女優と言われていた人だった。
タエさん良かったね、と後の二人が女優に呼びかける名前が私の知るのとは異なっていたが、こちらが本名なのだろう。
タエさんは、乱れていた髪を掻き上げて整えた。その、指の動きや肘の曲げ具合、顔の傾け方、そして、整え終わった後に右手を下ろして腰の前で左手に重ね、僅かな間を置いて、少し俯いていた顔を上げて私に視線を移す仕草は、少しの乱れもなく完全に制御されていて、しかし極めて自然に見えた。私を見るその目も、かつて私が見た映画の中の白い宝石のようなそれだった。
だが、その後もホームを訪れる度に同じことが繰り返された。
つまり、老婆達は、やはり私を睨み付け、あの場所に引っ張って行き、同じ言葉で詰問するのだった。そのうち、ホームの職員達は、私が訪ねると、来たよ、と老婆達を呼んだりして、私と彼女達のその遣り取りを、私達の間での挨拶でもあるかのように面白がるようになった。鬱陶しいことではあったが、タエさんの様子の変化もその都度現れ、私はそれを稀有なプレゼントのように受け取った。
なのに、外では、ヘリポートでいつも出会すのに、輪になって遊ぶばかりで、声をかけようと私が近付いても、彼女達は私と顔を合わせなかった。わざとそうしているとしか思えないが、わざとらし過ぎていて、何か自動機械が動いているようにも見えた。ホームで私を囲むのも、外で私の方を向かないのも、そのように自動化されているからだとさえ思えた。
そうした或る日、いつものようにヘリポートでの仕事をしつつ老婆達が遊んでいるのを眺めていると、タエさんがふと、いつもと違う動きをした。三人の輪の内側に向き続けていた顔が、僅かに輪の外に出た。
その顔の向く先は緑の生い茂る山の南斜面だったが、そこに何かがいた。この辺りにいる栗鼠か狸だろうと私は思った。だが、タエさんがそれを見る顔が、ホームでの詰問の後、ありがとう、と言う時の、あの端正さを帯びているのが、小動物を目にして感情が刺激されたのではないことを覚らせ、私は改めてそれを凝視した。
そこには、草に埋もれて一人の男がいた。地味な服の色が却って草の青々さから浮き出ていた。それは、いつか山を向こう側から登った時に見かけた、変電所にいた電力会社の社員だった。
彼もタエさんを見ている。タエさんと同じ様子なのが、二人が初対面ではないことを示していた。
私は、男に向けていた顔をタエさんに戻した。すると、タエさんが私を見ていた。その鋭い視線には強い非難が含まれていた。