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幸せな死と不幸な生

何にも従わずに存在し続けるのが、道というものだ。道に従う生物が天寿を全うし、(生命の循環が)絶えないのが恒常というものだ。生きる運命にあったのに、(天寿を全うせず)死んでしまうのは不幸だ。道に従う生物が必ず死ぬのも、道というものだ。(道に従わず)死ぬ運命にあり、まだ寿命ではないだけで(すでに)自滅しているのも、恒常というものだ。死ぬ運命にあるのに生きているのは、(むしろ)不幸だ。

だから、何にも従わずに生きるものを道と言い、道に従って天寿を全うするものを恒常と言う。(道に従わず、)死ぬ運命にあって死ぬのも道と言い、道に従って死ぬのも恒常と言う。

(幸せに天寿を全うした)季梁が死んだ時、楊朱は門の前で(泣かずに)歌った。(不幸によって)随梧が死んだ時、楊朱は遺体をなでて泣いた。(しかし、)世の人は他人が生きていたり死んだりした時、(それが幸か不幸かも考えず、)歌ったり泣いたりする。


この章は『列子』仲尼篇にあるものだ。解釈が難しい部分もあるが、『老子』16章を参考に、生死を循環とする思想を表したものと考えた。楊朱が登場することから、この思想は楊朱に由来するものかもしれない。

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