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t_mizutani
三国志のお家騒動 鼎は軽い方が良い!?
諸葛亮は暗愚な劉禅に足を引っ張られ、実力を発揮できなかった人物と捉えられることも多い。しかし、劉備の養子だった劉封が敗走してきた時、諸葛亮は彼を殺すように進言した。劉封は勇猛で、劉備の死後に制御出来なくなる事を恐れたためだ。逆に言えば、諸葛亮にとって劉禅は都合の良い君主ではなかったか。
『三国志』後主伝の評には、「白い糸は何色にも染まる」とあり、劉禅の周囲に流されやすい性格を表している。一方で諸葛亮の存命時に、改元や大赦を控えていた事は評価している。両者の関係は、それなりに上手く行っていたとも考えられる。
乱世において、臣下は生き延びるために、優秀な後継者を擁立しようとする。さらに、そうした後継者に取り入ることで、身を立てようとする者も現れる。これにより、魏と呉では激しい権力闘争が起こった。諸葛亮は劉表の跡継ぎ争いを目の当たりにしていたから、その轍を踏むまいと冷徹な判断をしたのだと思う。