杭州の茶館にて
喫茶店、ティーハウス、茶館など、お茶を飲める施設を訪れる人々は、しばしば単にお茶を飲んでのどを潤す以上の機能を求めている。それは友人との交流であったり、お気に入りの本とともに上質な時間を過ごすためだったりするのだが、私の場合は未知との出会いを期待して行くことがある。おそらく、過去のこのような出来事が強く印象に残っているのだろう。
2015年9月3日、戦勝70周年の記念日ということで、中国政府はこの日を例年にはない祝日とし、習近平政権初の大閲兵式を行った。当時上海に住んでいた私は突然の休みをムダに過ごすわけにはいくまいと、かねてより行きたいと思っていた浙江省の諸葛八卦村を訪れた。軍事的なにおいのするイベントは好みではないが、仕事をしなくていいのならいくらでも歓迎する。
諸葛八卦村は諸葛亮の子孫が建てたと言われる不思議な村だ。村内は「孔明の罠」の名に恥じないほど入り組んでいて、容易に方向感覚を失ってしまう。村を訪問したその日の夜、村の付近で取ったホテルに戻ってテレビをつけると、あるチャンネルでは抗日戦争を題材にした劇を放送しており、ニュースチャンネルでは学ランを思わせるような中山服に身を包んだ習近平が軍事パレードの先頭を走る車の屋根から身体を出して「同志們好!」と兵士に敬礼していた。
三国志の英雄の血を引く人々が暮らす村、抗日劇、軍事パレード。ホテルの部屋でテレビをつけっ放しにしながらその日あったことを思い返していると、現実感というものがどんどん失われていくように感じた。
↑諸葛八卦村の風景
翌日、上海へ戻る途中、やや時間があったので、浙江省の省都であり交通の要衝である杭州を観光することにした。杭州といえば有名な茶所であり、その茶館に行ってみたかったのだ。調べてみると、河坊街というところにある茶館が近そうだ。近くまで行ってみて思い出したのだが、河坊街というのはバリバリの観光地である。観光地にある茶館など高いだけでろくでもないところだと相場は決まっているのだが、今さら別の茶館を探す気力もわかず、仕方なくその茶館に足を踏み入れた。
私のテーブルには、若い気だるげな男性が付いてくれた。私が日本人だとわかると、「昨日のパレードを見たか? 実のところ俺たちは平和を愛しているんだ」などと腹の底がわかりかねるようなことを言う。肝心なのはお茶だ。メニューを見せてもらい、値はそれなりに張るがせっかくだからと、杭州特産の緑茶・龍井茶を注文する。男性店員が慣れた手つきで茶葉からお茶を入れてくれる。
小さなコップから一口すすると、果たして入館前の予感が正しかったことを確信した。龍井の新茶に特有の香り高さとほのかな甘みがないのだ。
有名観光地に店を構える茶館だけあって、内装や茶器は安っぽいながらも雰囲気がある。並大抵の観光客であればそれだけで満足してしまうのだろう。相手が味の分からなさそうな外国人であればなおさらいい茶葉を出そうという気にはならなかったのかも知れない。だが、彼らにとって不幸だったのは、私が「初級茶芸師」という中国の国家資格を持っている「違いの分かる男」だったことだ。
私がよほど渋い顔をしてお茶をすすっていたのか、それともそう聞くことになっているのか、若い店員はお茶の感想を尋ねてきた。私が味の感想を正直に伝えると、店員は意外にもあっさりと古い茶葉を使っていることを認めた。お茶の味は残念だったが、雰囲気ぐらいは堪能できたし、注ぎ口が1mはあるやかんを使った功夫茶のパフォーマンスも見られた。値段分くらいは楽しめたかなと、半ば自分を納得させるように考えた。
驚いたのはここからだった。店員が奥から別の茶葉を出してきてくれたのだ。緑色の緑茶ではなく、黒い色をした紅茶だ。名前を聞くと、「九曲紅梅」というらしい。頼んでもいないお茶でさらに金をむしり取ろうという魂胆なのだろうかと一瞬警戒したが、無料でいいという。スマイル0円などどこ吹く風の塩対応を食らいがちな一方で、こういう気前の良さに出会えることがあるのもまた中国流おもてなしなのだ。
出された九曲紅梅をすすってみる。言われてみれば、その名の通りほのかに梅の香りがただよってくる気がする。龍井と同じく杭州の特産茶なのだそうだ。
龍井は全国的に有名な茶葉であり、品質にこだわらなければどこでも手に入るのに対して、九曲紅梅はおそらくかなりマイナーな部類に入る。のちに上海でも探してみたが、手に入るところはなかった。この茶館に来なければ、出会うことはなかっただろう。たまたま入った古本屋で運命の1冊に出会うことがあるように、ぼったくられかけた茶館で見知らぬ一煎に出会うこともある。
中国各地にはまだ私の知らない地酒ならぬ「地茶」がたくさんあるのだろう。ちょっと検索すればたいていのことはわかってしまうこのデジタル全盛の時代にあって、実際に現地に赴いて未知との出会いを探すのは旅の醍醐味の一つだ。そして、気に入った茶葉を買って帰り、何日もかけて飲む。そうして長いこと旅の余韻に浸ることができるのが、お茶という趣味のいいところだと思うのだ。
ノートに「スキ」をしていただくと、あるボードゲームの中国語タイトルと、それに対応する日本語タイトルが表示されます。全10種類。君の好きなあのゲームはあるかな?