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自分と他人、響きと影

列子は壺丘子林の教えを受けていた。壺丘子林は「後ろにいることを知れば、身を守ることが出来る」と言った。列子は「後ろにいるとは、どういうことですか?」と聞いた。壺丘子林は「自分の影を見れば分かる」と答えた。列子が振り返って影を見ると、自分の体が曲がれば影も曲がり、自分の体が真っ直ぐなら影も真っ直ぐになった。

つまり、影は形に従って曲がるだけで、そこに影〔の実体〕はない。自分〔の地位〕は他人任せに上下するだけで、そこに自分〔の実体〕はない。それ〔を知ること〕を、「後ろにいるのに、〔かえって〕先になる」と言う。

関尹が列子にこう言った。「美しい言葉は、その響きも美しく聞こえるものだし、醜い言葉は、その響きも醜く聞こえるものだ。背が高ければ影も長くなるものだし、背が低ければ影も短くなるものだ。名誉というものは響きに過ぎないし、地位というものは影に過ぎない」

「だから、『お前の言葉を慎め。そうすれば、仲良くしてもらえる。お前の行いを慎め。そうすれば、信頼してもらえる』という言葉がある」

「そうやって聖人は、出てきたものを見て入っていくものを知り、過去を見て未来を知る。これが、先を知る原理というものだ。ものさしは自分で、測るのは他人だ。他人に愛されるのは、他人を愛するからに他ならない。他人に憎まれるのは、他人を憎むからに他ならない」

厳恢がこう言った。「私が道を知りたいのは、富を得るためです。もし今、宝石を手に入れたなら、それも富を得たということでしょう。道が何の役に立つのですか?」

列子はこう答えた。「人間なのに道を知らず、欲望のままに生きるだけなら、それは鶏や犬と変わらない。食うために争い、勝った者が支配するだけなら、それは猛禽や野獣と変わらない。獣のようになっておいて、他人から尊敬されようとしても不可能だ。他人から尊敬されなければ、いずれ危険や屈辱に見舞われるだろう」


これは『列子』説符篇の冒頭にある文章で、自分と他人の関係について議論されている。

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