その場所がなくなって記憶は
なんとなく以前住んでいたところを訪れてみた。といっても隣の区にあるから今までにも気が向くと時々行っていた。
そこは僕が京都に来て初めて住んだ場所になるんだけど、いつの間にかその下宿は取り壊されていて、新しくマンションが建てられていた。
京都への進学が決まり、住むところを探し始めたのがたしか3月末くらいだった。このためだけに京都に来て、よくわからないまま適当な不動産屋に入ったら、担当の人に「今ごろそんな条件で見つかるわけないでしょう!」とけっこう真剣に怒られた。そして紹介されたのは家賃が3万くらいの間借り物件だった。間借りって?と思いながらも、それしかないと言われたのでしかたなくそこに決めた。滞在日数も限られているので、物件も見に行かなかった。
引っ越し当日、その物件の大家は何かの新興宗教に入っているか、特殊な思想を持った人だというのがうかがい知れた。結局その下宿を出るまで詳細はわからなかったんだけど、とにかく彼の異質感は半端なかった。
そもそも僕の下宿となる家自体も変だった。古い京町屋で、今にも崩れ落ちそうな状態だった。意味不明な板が窓に打ち付けられていたり、煉瓦が積み上げられたりしていた。家の中はいろんなところに変な布がかかっていた。不気味としか言いようがなかった。
その異質な大家には妻と娘がいて、1階に住んでいるはずなのに(僕たちは2階に部屋があった)顔なんて一度も見たことがなかった。生活音もほぼ聞こえてこない。僕を含めた5人の下宿人も、誰もその妻と娘を見たことがなかった。
でも、間借りをしていた5人の下宿人とはとても仲が良くなり、一緒に近くの銭湯に行ったりごはんを食べたりゲームをしたりした。適度な距離感を保ちながらも、とても平和的に仲良く暮らしていた。なぜあんなにも平和的に過ごすことができたのか、今でも不思議に思うくらいだった。でも、残念なことに彼らとは連絡先を交換していなかったので、もうそれ以来会ってはいない。
そして、この下宿ではいろんな音楽を聴いた。一人の時はいつも音楽を聴いていたし、一人でいる時が多かったから、いろんな音楽を聴いた。
その中でも特に矢野顕子の「super folk song」とbob dylanの「the bootleg series vols.1-3」を聴くと、どういうわけかこの下宿のことを思い出す。
8畳一間の部屋に一人でぽつんと座り、窓からの景色を見ながら、この2枚のアルバムをよく聴いていた。
そんな下宿をいつものようにふらっとそこを訪ねてみると、その家はもうなくなっていて、すでに新しいマンションが建っていた。びっくりした。でももうあれから数十年は経っている。こうなるのも当然なのだろう。
そしてこの時、あの下宿での記憶はもう僕の頭の中だけのものになってしまうんだな、と思った。今まではここに訪れてあの家があることを確認することで、自分の記憶はこの家を発端に存在しているんだよなあと改めて実感していた。そこに不思議な安心感があった。
でもそれはもうなくなってしまった。その場所の記憶は、もう自分の中にしか存在しない。それがとても心許なかった。そして、たぶんこれからどんどんそういう類の記憶が増えていくんだと思うと、少し切なくなってしまった。
この映画の老人は、海面上昇にともなって、積み木のように上に建て増しされていった家に一人で暮らしている。ある日パイプを海に落としてしまい、老人は潜水服を着て階下へ潜り、かつて住んでいた部屋を一つずつ訪れる。下の階に行くほど記憶は古くなり、一番下の部屋は、老人が妻と出会ったころの部屋になる。
10分くらいのショートムービーでセリフもなく、ストーリーもシンプルだけど、だからこそがっちりと届くものがある。
そしてなにより、記憶が垂直のイメージというのがなんかとてもしっくりきた。過去 / 記憶が時間軸の後ろのほうのどこかに存在するというのではなく、自分自身の真下の奥深くにあるというイメージは、なんかいい。事実、そのほうが実際の記憶の存在のしかたに近いように思う。
そして、この老人と同じように、僕たちはそれらの過去 / 記憶を足場として現在の場所に立っている。過去や記憶がなければ、もしくはないがしろにしていては、現在の場所に本当の意味で立つことはできない、ということをこの映画は語っているんだと思う。
僕が住んでいた下宿はなくなってしまったけど、足場としての下宿は僕の記憶の中に今でもずずんとあり続けているし、いつでも僕はそこへ戻っていける。むしろ強制的にそちらに連れて行かされるような気すらする。
だから、実体としての下宿がなくなってもたいした問題ではないんじゃないかな、と思う。たぶん。